top of page

​炬火 Die Fackel 

 お笑い芸人ビートきよしの発言。

 「日本人の主食だぞ。外国人に金ばらまいてないで米農家を守ってくれよ」

 ビートきよしは山形県の出身で、これを相棒ビートたけしに田舎者だと揶揄われていたけれど、米所の出だから米農家を大切に思って当然だ。

 かつては、ビートたけしとビートきよしで漫才コンビの「ツービート」だった。



 ツービートなどが1980年の漫才ブームの中で有名になった当時のこと。

 この一方で「コント赤信号」というトリオがテレビの演芸番組によく出るようになった。ツービートなどの漫才コンビに比べて人気は遥かに劣っていたし、笑いもとれてなかった。人気漫才師が他の番組などに出ている間の穴埋め的に出ていたに過ぎなかった新人お笑い芸人たちの一つに過ぎなかった。

 このコント赤信号は米農家を侮辱するコントをやっていた。


 ツービートの笑いは下品だから最も顰蹙を買っていた。

 しかしビートきよしが山形の出身であることを笑いにしているのは飽くまで田舎者ということで、それも非現実的なことを言ってギャグにしていた。例えば、山形のビートきよしの実家は取り残されていて、その池には三葉虫が生息している、などと。

 ところがコント赤信号は田舎者ではなく米所と米農家を笑いのネタにし、それも風刺でもなんでもなく、ただ農村というのをバカにしていた。



 「サッサッニーシキ、サッサニーシキ」

 とふざけて言い、ギャグのつもりのようだ面白くなくて実際に客席も笑ってなかったし、そんなふうに言うならお前らは米を食べないのか、食べないにしても生産者に失礼じゃないかと問いたくなるほど下らなくてつまらない素人臭い演芸だった。

 その三人組の一人であったラサール石井は、後に俳優となり、今では「リベラル」な立ち位置で政治的な発言をしている。


 そんな自分の過去を、どう思っているのだろうか、ラサール石井は。

閲覧数:37回0件のコメント

 終戦の日は九月二日なのに八月十五日にしている。

 こんなことを言っているのは日本だけで、第二次世界大戦に参加していた国々では九月二日である。これは日本が敗戦によってアメリカの従属国となった実態を誤魔化すためのプロパガンダであった。

 この前回の話題に、天皇制とのからみが指摘されたので、その続きである。


 まず八月十五日の玉音放送がある。

 あの日、裕仁天皇(昭和天皇)はNHKのラジオで、戦況が好転せず勝利は諦めるしかないと宣言したうえで、国民に対して「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」とするよう指示した。この言葉は外国の報道で取り上げられていた。

 そして後の天皇とマッカーサーのツーショット写真。大柄なマッカーサーがリラックスして立っている横で、小柄な裕仁天皇が緊張して直立不動になっている。これが発表されると、日本はアメリカに完敗したこと印象づけられた。



 次に東京裁判であった。

 アメリカは占領政策に天皇を利用するため強引に免罪へと誘導したから、オーストラリア出身の裁判長も反発した。このため裁判長が少数意見を付するという異例の判決となった。

 そもそも、敗戦は決定的だから和平と終戦の道を模索するため御前会議を開催するよう求められても、天皇は拒否しつづけた。終戦が遅れて広島・長崎の原爆禍があったと言われるが、実は原爆の後も天皇は終戦を躊躇っていた。

 その態度が変わったのはソビエトの対日参戦であった。ソビエト側としては、日本の降伏は近いけれど、その前に便乗しておかないと、ヨーロッパでアメリカに便乗されて損しているから、その見返りを寄こせというのが本音だった。ところが、それで天皇が敗戦を受け入れるという予期しない結果となった。

 ソビエト連邦政府は革命で皇帝を処刑して成立した政権であり、実際にその影響下の国々では君主制が廃止され共和制になっている。これが中国なら満洲国の溥儀みたいに皇帝から一般人となることもあるが、ソビエトでは外国に亡命しないと殺されるかもしれない。それで天皇はアメリカの傀儡となる道を選択した。


 国体が護持されて良かったと保守派や右翼は喜んだ。

 しかし天皇は、宗主国アメリカが従属国ジャパンを言い成りにさせるツールとなった。それで裕仁天皇は、記者会見で公言した。原爆の犠牲者は気の毒だが、戦争だったから仕方ない、と。そう言い放ち、自国民より宗主国が大事という態度を表明した。オドオド、ビクビクという調子だったから、よほどアメリカが怖かったのだろう。

 こうしてアメリカは天皇を押さえてしまったのだから、自民党の大臣なんてチョロいものである。

 こうして、日本国民は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」を続けているのである。

閲覧数:23回0件のコメント

 先の九月二日に、この日が終戦とは知らなかった人がいて驚かれていた。

 それも無理ないことだろう。戦後、日本では政府のプロパガンダによって終戦は八月十五日だと嘘を国民が刷り込まれてきたから。

 きちんと考えれば政府の嘘は簡単に判る。八月十五日は戦争で勝てそうにないから諦めると、日本が一方的に発表した日である。戦争には相手国があり、それと合意して終戦である。それが降伏文書の調印として正式に合意されたのが九月二日である。



 第二次世界大戦に参加した国で終戦は九月二日になっている。

 それなのに日本だけ八月十五日にしている。この日を韓国では日本の敗北で希望が見えた日として記念しているくらいだから、日本にとって八月十五は終戦の日ではなく敗戦の日である。

 なんでこんな変なことを日本は戦後ずっとやらかしてきたのか。それは、敗戦とサンフランシスコ講和条約によって日本はアメリカの従属国となってしまったということを誤魔化すためである。


 サンフランシスコ講和条約はアメリカとの終戦である。

 だからロシアなど他の戦勝国とは和解していない。これが領土問題にも影響している。正式に仲直りしていないし、宗主国であるアメリカの言いなりである従属国の日本とは戦後処理の話し合いなどできないと言われてしまった。これは当然のこと。

 これを無理して正当化してきたのが戦後の日本である。


 対米隷属の立場からマスコミを批判する人もいた。

 例えば朝日新聞に対して、あの当時多くの新聞の論調は、アメリカだけでなく戦争の当事国との全面講和を主張していたが、アメリカの傘下に入ったおかげで戦後の日本は発展したのだから、全面講和の主張は間違っていたと国民に謝罪するべきだと言っていた。

 その当時でさえ失笑もので、実際に日本の繫栄は長続きしなかった。けれど、昔は日本が今のように衰退してなかったから、アメリカとの単独講和は正しいと思う人もいて、今ほどバカげた感じはしなかった。


 ここで気づかないといけなかった。

 日本の経済が発展したのはあくまでアメリカのお陰様であり、そこへ安く従順な労働力があった。つまり日本の財界人とか経営者とかは無能である。そのメッキが剝がれたというかボロが出たでたという状態は結構な昔からのことであった。官僚も同じである。

 そこで改めて、日本の一般的な庶民大衆は、無能な自称エリートたちに見切りをつけて自らの努力で生き延びるべきであるし、それは可能であるから自信を取り戻すことだ。

閲覧数:20回0件のコメント
bottom of page