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  • 執筆者の写真井上靜

敗戦により従属国となった日本のツールとしての天皇制

 終戦の日は九月二日なのに八月十五日にしている。

 こんなことを言っているのは日本だけで、第二次世界大戦に参加していた国々では九月二日である。これは日本が敗戦によってアメリカの従属国となった実態を誤魔化すためのプロパガンダであった。

 この前回の話題に、天皇制とのからみが指摘されたので、その続きである。


 まず八月十五日の玉音放送がある。

 あの日、裕仁天皇(昭和天皇)はNHKのラジオで、戦況が好転せず勝利は諦めるしかないと宣言したうえで、国民に対して「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」とするよう指示した。この言葉は外国の報道で取り上げられていた。

 そして後の天皇とマッカーサーのツーショット写真。大柄なマッカーサーがリラックスして立っている横で、小柄な裕仁天皇が緊張して直立不動になっている。これが発表されると、日本はアメリカに完敗したこと印象づけられた。



 次に東京裁判であった。

 アメリカは占領政策に天皇を利用するため強引に免罪へと誘導したから、オーストラリア出身の裁判長も反発した。このため裁判長が少数意見を付するという異例の判決となった。

 そもそも、敗戦は決定的だから和平と終戦の道を模索するため御前会議を開催するよう求められても、天皇は拒否しつづけた。終戦が遅れて広島・長崎の原爆禍があったと言われるが、実は原爆の後も天皇は終戦を躊躇っていた。

 その態度が変わったのはソビエトの対日参戦であった。ソビエト側としては、日本の降伏は近いけれど、その前に便乗しておかないと、ヨーロッパでアメリカに便乗されて損しているから、その見返りを寄こせというのが本音だった。ところが、それで天皇が敗戦を受け入れるという予期しない結果となった。

 ソビエト連邦政府は革命で皇帝を処刑して成立した政権であり、実際にその影響下の国々では君主制が廃止され共和制になっている。これが中国なら満洲国の溥儀みたいに皇帝から一般人となることもあるが、ソビエトでは外国に亡命しないと殺されるかもしれない。それで天皇はアメリカの傀儡となる道を選択した。


 国体が護持されて良かったと保守派や右翼は喜んだ。

 しかし天皇は、宗主国アメリカが従属国ジャパンを言い成りにさせるツールとなった。それで裕仁天皇は、記者会見で公言した。原爆の犠牲者は気の毒だが、戦争だったから仕方ない、と。そう言い放ち、自国民より宗主国が大事という態度を表明した。オドオド、ビクビクという調子だったから、よほどアメリカが怖かったのだろう。

 こうしてアメリカは天皇を押さえてしまったのだから、自民党の大臣なんてチョロいものである。

 こうして、日本国民は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」を続けているのである。

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