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​炬火 Die Fackel 

 博士号を持つ理数系の人が無知を曝け出していた。

 例えば「ドラクエシリーズ」の作曲を手がけたすぎやまこういちが右翼思想の持主だったから、ドラクエはやらないしドラクエの曲など聴きたくないという人がいるとか、 東京オリンピックの開会式でドラクエの序曲が使われたのを彼の政治思想を助長すると批判する左派の人がいたとか、そんな事実誤認をしたうえ、政治思想で作品そのものまで嫌うのは間違っていると思うと宣た。

 そもそも、すぎやまこういちは右翼思想なんて持っていない。そう勘違いする発言を意識してやっていただけ。これは周知のことだ。



 すぎやまこういちは都倉俊一と同じで政治力の音楽家だ。

 すでに指摘したとおり、すぎやまこういちは時勢に合わせた音楽で作風を変遷させてきた。そして処世術として権力に媚びる発言をしてきたが、それは差別と偏見を煽るヘイトスピーチだった。だから批判されてきたし、その作品を公共の場や国際親善の場で使用することに対して当然のこと反対されたのだ。

 また都倉俊一の場合は統一協会との関係を隠そうともしなかった。それを批判されたからと信教の自由への侵害というのはとんでもない錯覚である。カルト団体として反社会的勢力という評価が様々な動かせない事実から定まっているから問題なのであって、信仰する教義のためではない。


 さらに「理数系」の「博士」は外れたことを言っていた。

 この人はネトウヨだから何故すぎやまこういちが批判されているか解らず、ただ左派が非難していると見当外れを言っていたけれど、そうしたら逆に左派っぽい発言をしていた坂本龍一について、政治思想は相いれなかったけど彼の作曲した作品の数々は素晴らしいのでピアノで好んで弾くし、小説でも三島由紀夫が最後は狂気の行動だったけれど小説は素晴らしいとしたうえ、 政治思想と作品を切り分けできない人は芸術を楽しむのに向いていないとか、切り分けできない人は坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心の狭い人だとか、阿呆なことばかり言う。

 そももも音楽と小説では表現されるものがまるで違うし、三島由紀夫の最期は思想から過激な行動に走ったが、それと内容的に関係したりしなかったりは作品によって異なる。また、狂気なら他にもゴッホとか様々な分野の芸術家に見られるが、そこに妙な拘りを示す人はまずいない。


 その人が特に解ってないことは右翼の定義である。

 権力に媚びて商売する人は、信念のある右翼とは違う、ということ。そんな姑息な商売をする人は、処世術に長けているから要領が良くてパクリが多い。すぎやまこういちなど典型的で、その弟子の筒美京平など平然とパクリのテクニックを語るほどだ。そこを見抜かれるが、法をすり抜けるのも上手い。それで嫌われる。どんな分野でも権力に媚びる処世術を駆使する人は必ずパクリが常套手段である。そんなのと一緒にしたら三島由紀夫に失礼だ。

 また三島由紀夫作品の映画化やオペラ化の音楽を担当した黛敏郎は右翼ぶって何も解っておらず恰好つけだけだったことは別問題として、いちおう右派としても、すぎやまこういちみたいに作品がどこかで聴いたことあるものばかりではなかったし、右翼的だから当然に差別的かつ権威主義的という批判はあったけれどヘイトスピーチしていたわけではない。もっと生きていたらどうだったか保障はできないけれど。


 この理数系博士は自分の狭く貧弱な教養と知性によって低劣ネトウヨとなり、芸術の鑑賞について、味覚音痴だから何を食べても旨いみたいにして、しかも有害な食品添加物を避けるのを偏食と勘違いしているも同然なのである。

 よく、ネトウヨは低学歴だと錯覚されるが、高学歴でもその分了見が狭いからネトウヨになっている人たちがザラにいるのだ。

 

 
 
 

更新日:6月16日

 名古屋大職員組合が、自衛隊の広報ブース出展に中止要請。

 これは、名古屋大学祭に、自衛隊の災害救助についての展示がされそうになったことに対して「自衛隊の本質が軍事組織であることを覆い隠し、学生や地域住民に『かっこよさ』や『安心感』を植え付ける一面的な宣伝活動。市民の大学への信頼を失う」と中止の要請がされたことだ。


 これについてchat GPTで調べた人がいた。

 「職員組合が大学の教育や運営に関して意見を述べることは不適切か?」

 「結論から言うと、職員組合が大学の教育や運営に関して意見を述べること自体は、不適切とは言えません。

 むしろ、多くの大学では教職員が教育環境や大学のあり方について意見表明を行うことは、大学自治の一部として認められています。

・教職員は大学の教育・研究に責任を持つ構成員である。

・教育的観点や大学の理念に照らして懸念があれば、意見を表明する権利がある。

・学生だけでなく、教員・職員も大学自治を担う主体である。

・組合が声明を出すこと自体は、表現の自由や組合活動の範囲内である。

 このような点から 「自衛隊出展に反対する声明を出したこと」 そのものは正当な権利行使と評価されます。

 日本でいう「大学自治」は、必ずしも「学生自治」だけを意味しません。歴史的には、 教員の研究・教育の自由 大学組織の自主性 学生の自治活動などを含む広い概念です。

 したがって、学生が意見を言う権利 教職員が意見を言う権利 組合が意見を言う権利は いずれも大学自治の一部と考えられます。

 そのため、「職員組合が意見を述べたこと自体が不適切か」という問いに対しては、大学自治や表現の自由の観点からは、通常は不適切とは言えないというのが中立的な整理になります。」

 以上chatGPTの回答



 ここで、よくある勘違いを開陳した人たちがいる。

 「国立大学だから国に従え」と言うのだ。ところが、国はあくまでも設置したり予算を出したりするのであって、その運用については学ぶ人たちの自治だ。だからユニバーシティというのはユニオンすなわち組合を意味した言葉である。

 そもそも、名大祭自衛隊ブース出展問題に対して名大職組がやったことは「名大祭の趣旨に反する」という声明を出しただけである。中止の判断は大学と実行委員が下したのであって、それを妨害だの弾圧だの言うのは事実誤認に加えて悪意がある。

 そもそも大学が組合の一種なのは、教職員も学生も一緒になって研究したり学んだりするという意味。だから ストライキもやればロックアウトもすることがある。昔は、よくあったこと。学園祭に自衛隊や警察など国家権力の暴力装置の宣伝ブースを設けるという行為は極めて深刻な大学自治への侵犯であるから、手段を選ばず阻止してもいいくらいだ。

 なのに、一部の政治家が名大を誹謗している。これは政治家による大学自治に対する弾圧である。


 「自衛隊を批判する奴は災害の時に自衛隊が助けなきゃいい」

 と喚く奴らが、この件で、また湧いて出た。

 もともと、災害救助隊を作れという意見があったのに、それを自衛隊にやらせ、そうしておいて自衛隊への批判を災害を利用して実質「殺すぞ」という脅迫で封じるという狂気の手口だったから、こんな弾圧を口にする者がいても当然のことだ。

 その卑劣を大学祭でやろうとしたから批判されて当然である。


 だいたい自衛隊は助けない。

 それどころか、どさくさ紛れに殺すことを堂々と計画してる。機関誌『朝雲』にも書いてあった。石原慎太郎が都知事の時には、それだけじゃなく災害の時に三国人も殺せと自衛隊に指示し、まるで関東大震災の時の「朝鮮人が暴動」という官製デマで虐殺があった時の再現だと批判されたけど、何が悪いんだと居直ったのは周知のとおり。

 やはり自衛隊の本当の仕事を忘れてはならない。災害救助ではないし、外部からの武力攻撃に立ち向かうのでもない。体制に逆らう国民を殺すことである。穏健なデモであっても、女性や子供を連れてる人がいても、情け容赦なく銃撃するための「ヒューマニズムの克服」が必要であると機関誌『朝雲』が説いていた。それではいけないと批判した自衛官たちが昔いたけど、みんな追放された。


 防衛医大の医療裁判の時も、そうだった。

 そんなヤブ医者いなくなった方が自衛官と家族のためになるし国のためにもなると言う自衛官もいたのに、防衛医大の側は、訴える患者が住んでいる所に自衛隊の給水車を行かせないと脅し、訴訟を取り上げろと迫り、あくまで隠蔽を図ったのだ。

 どんなに間違ったことをしても、故意に悪いことをしても、自衛隊が責任を追及されることかあってはならない、と言って。


 名古屋大学の件でまた露呈したが、これは自衛隊が昔からやっていることの反映だ。

 いつも自衛隊は市民に対して銃を向け暴力で脅しているくせして、それを言論で批判されて困ると職業差別だと言って急に弱者ぶる。

 まったく、イスラエルが武力にものを言わせておいて批判されるとユダヤ人差別だと喚くのとよく似てる。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年7月2日
  • 読了時間: 2分

 大学の教員や元職の人たちが文科省を批判している。

 これは、自民党の排外主義者たちの働きかけにより、外国からきた留学生への公的援助をなくすという国粋主義のことだ。もともと外国からの留学生は、国内の研究に参加して多大な貢献をしていた。そうした学問上の事実を知らない人達による単純バカ的な発想であるから、批判は当たり前である。

 あの学術会議のことでも、現政権の反知性主義は度し難く、国を滅ぼすものだ。



 日本で博士号を取得する人が減っていることも背景にある。

 それで外国から来た人ばかりの印象になって誤解している人たちがいる。だから博士号の取得者を増やすべきだと説く元大学教員がいた。

 それによると、博士号を取得すると大学に勤める以外の就職が乏しくなるから、これでは博士号取得者が減って当然だと言うわけだ。そして、諸外国では勤め人に博士もいるのが普通なのに、日本は公官庁も民間企業も博士を疎ましがる風潮だから、それなら博士を一定雇うよう義務付ける法律を制定するべきだという。


 それより費用が原因だという指摘もある。

 そもそも大学の学部でさえ金がかかって大変、この段階で諦める人がいっぱいいるのだから、大学院に進んで修士さらに博士の過程に進める人など、ごく少数の恵まれた人たちである。

 その後の就職を心配する前に、学問に関心が強くても諦める人ばかりというのが昔から今までの実態である。だから、そんな富裕な家庭の恵まれた人など就職しなくていいはずだ、大学の研究でもやっていろ、と言う人たちが多くなる。これでは就職など無いに決まっている。

 これを解決するのが先だろう。


 中学の時に受験の数学を習った人が博士号をもっていた。

 この人は自分が工学博士だと言っていた。それで「ポスドク」として研究ではなく受験の指導を仕事にしていた。それはいいけれど、この人の数学の授業は解らなかった。誰もが解りにくいと言っていた。ところが、その時は難解だけど、自分が大学に進んでから、その難解だった話を思い出すと簡単に理解できるし面白いのだ。もちろん、そんなことより入試が迫っている時は手っ取り早く受験の対策をして欲しいものだから、後で面白くなる話など正直言って迷惑だった。

 しかし、この、後から面白さが解かることなど知らない人たちが今の政権与党に多いということだろう。だから知的好奇心など無駄としか考えられない。ついでに反知性主義もはびこる。その結果が、このところの無茶苦茶な立法と行政なのだ。


 


 

 
 
 
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