- 井上靜

- 7月26日
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博士号を持つ理数系の人が無知を曝け出していた。
例えば「ドラクエシリーズ」の作曲を手がけたすぎやまこういちが右翼思想の持主だったから、ドラクエはやらないしドラクエの曲など聴きたくないという人がいるとか、 東京オリンピックの開会式でドラクエの序曲が使われたのを彼の政治思想を助長すると批判する左派の人がいたとか、そんな事実誤認をしたうえ、政治思想で作品そのものまで嫌うのは間違っていると思うと宣た。
そもそも、すぎやまこういちは右翼思想なんて持っていない。そう勘違いする発言を意識してやっていただけ。これは周知のことだ。

すぎやまこういちは都倉俊一と同じで政治力の音楽家だ。
すでに指摘したとおり、すぎやまこういちは時勢に合わせた音楽で作風を変遷させてきた。そして処世術として権力に媚びる発言をしてきたが、それは差別と偏見を煽るヘイトスピーチだった。だから批判されてきたし、その作品を公共の場や国際親善の場で使用することに対して当然のこと反対されたのだ。
また都倉俊一の場合は統一協会との関係を隠そうともしなかった。それを批判されたからと信教の自由への侵害というのはとんでもない錯覚である。カルト団体として反社会的勢力という評価が様々な動かせない事実から定まっているから問題なのであって、信仰する教義のためではない。
さらに「理数系」の「博士」は外れたことを言っていた。
この人はネトウヨだから何故すぎやまこういちが批判されているか解らず、ただ左派が非難していると見当外れを言っていたけれど、そうしたら逆に左派っぽい発言をしていた坂本龍一について、政治思想は相いれなかったけど彼の作曲した作品の数々は素晴らしいのでピアノで好んで弾くし、小説でも三島由紀夫が最後は狂気の行動だったけれど小説は素晴らしいとしたうえ、 政治思想と作品を切り分けできない人は芸術を楽しむのに向いていないとか、切り分けできない人は坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心の狭い人だとか、阿呆なことばかり言う。
そももも音楽と小説では表現されるものがまるで違うし、三島由紀夫の最期は思想から過激な行動に走ったが、それと内容的に関係したりしなかったりは作品によって異なる。また、狂気なら他にもゴッホとか様々な分野の芸術家に見られるが、そこに妙な拘りを示す人はまずいない。
その人が特に解ってないことは右翼の定義である。
権力に媚びて商売する人は、信念のある右翼とは違う、ということ。そんな姑息な商売をする人は、処世術に長けているから要領が良くてパクリが多い。すぎやまこういちなど典型的で、その弟子の筒美京平など平然とパクリのテクニックを語るほどだ。そこを見抜かれるが、法をすり抜けるのも上手い。それで嫌われる。どんな分野でも権力に媚びる処世術を駆使する人は必ずパクリが常套手段である。そんなのと一緒にしたら三島由紀夫に失礼だ。
また三島由紀夫作品の映画化やオペラ化の音楽を担当した黛敏郎は右翼ぶって何も解っておらず恰好つけだけだったことは別問題として、いちおう右派としても、すぎやまこういちみたいに作品がどこかで聴いたことあるものばかりではなかったし、右翼的だから当然に差別的かつ権威主義的という批判はあったけれどヘイトスピーチしていたわけではない。もっと生きていたらどうだったか保障はできないけれど。
この理数系博士は自分の狭く貧弱な教養と知性によって低劣ネトウヨとなり、芸術の鑑賞について、味覚音痴だから何を食べても旨いみたいにして、しかも有害な食品添加物を避けるのを偏食と勘違いしているも同然なのである。
よく、ネトウヨは低学歴だと錯覚されるが、高学歴でもその分了見が狭いからネトウヨになっている人たちがザラにいるのだ。


