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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 3月30日
  • 読了時間: 2分

更新日:4月4日

 港南ストリートピアノ設置者が顰蹙を買った。

 誰でも弾いてよいピアノで、つっかえてばかりいる人達のため、設置してあるフードコートの客から苦情があるので、練習は自宅でやって、つっかえずに弾けるようになってから来て欲しい、という声明を発表し、それが守られなければピアノを撤去すると言うことだった。

 これでは上手な人たちに無報酬で演奏させたいと言うも同然の図々しい話だから、さっさと撤去したらいいという声が上がっていた。


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 長時間の使用は遠慮するように言えば良かった。

 それなら、練習は出来なくなる。また、一曲なら時間は短い。それが真摯であるならヘタクソでも頑張って一曲通して弾けば拍手も起きるはずである。

 これを言ったうえで、弾き始めたら、つっかえてもいいから最後まで弾くよう頑張ってください、途中で止めると聴いている人が中途半端な感じに不快感を持つことが実際にありましたので、どうかよろしく、と。


 練習するピアノは別の問題だ。

 あの高橋悠治さんは、プロの演奏家だけど自宅にピアノが無く、公共の場で練習していることを誇っていた。学校などで、誰でも練習できるよう一緒に開放するべきではないか。

 自分の小さいころ、住んでいた東京都内の街では、近所に芸術家や学者など「文化人」が多く住んでいて、うちのように親の勤め先の社宅住まいでピアノが置けないところの子供が興味を持つと快く使わせてくれたものだ。

 それが埼玉県に引っ越したら、そういうことが出来なくなってしまった。自宅にピアノがある家は、うちの子と他所の子の差をつけたいから、持っていない家の子に使わせてなどくれないのだ。何から何まで「さもしい」土地柄だった。


 港南ストリートピアノの一件も、設置者が「さもしい」感じがする。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 1月23日
  • 読了時間: 2分

更新日:8月15日

 とうていアイドルになれない女の子の醜い話。

 これを前に話題にしていた。ここでいう醜いというのは精神的な問題である。もちろんアイドルになるにしては容姿からしてかなり厳しかった。それ以上に、憧れていた中山美穂が、ヒット作を唄うさい自分で楽譜を読んでのことだと知りショックを受けるなど、全体的に甘く考えていた。アイドルには楽譜が読めない人がよくいて、他人に唄ってもらい真似して唄うことがある。それで、アイドルなら楽譜が読めなくてもいいと思い込んでいた。

 しかし、歌唱がしっかりしていて何曲もヒットさせている歌手には、アイドルでも楽譜くらい読める人が昔からいたものだった。


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 その兄は楽譜が読めた。

 バイトして、楽器を買ったり音楽教室に通って勉強したりしたからだ。あくまで好きなことには詳しくなりたいという、当たり前のことだった。

 ところが、楽譜が読めなくてもいいと甘く考えていた妹は、兄のことを侮辱していた。どうせものにならないことをしていると言って。まったく努力しない自分を棚に上げて、というより正当化するために、口汚い罵りをしていた。

 

 好きなことをするだけでも努力が要ることは他にもある。

 そうすることで、ただ好きなことでも上手に出来るようになり、より楽しい。また、例えば受験勉強が優先になるなどして、いずれ辞めたとしても、後で友達から一緒にバンドやらないかとか手伝ってくれないかと誘われることがあるし、将来、自分の子供に教えてやることもできる。

 だから、それでプロになるとか、ものになるとか、そういうことでなくても、熱心にやることには相当の意義がある。


 そういうことが、どうして解らないのか。

 そして、やはり前に説明したが、兄は大学を出ていて、これもバイトしながら苦学してのことだったけれど、妹は受験勉強をまったくしないから入れないだけなのに、兄だけ大卒になっていると僻んでいた。

 これは親の躾が悪いからだけど、その親が言うには、生まれつきだから。自分の責任を認めたくないというだけでなく、どうも心の底から本気で、この娘を躾るなんて不可能だと思っているそうだ。よく漫画のネタに、親でもどうしようもない我儘な娘というのが出てくるけれど、あれは作り話のネタではなく実話に基づいている場合があるから、これもその一種なのだろう。 

 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年8月10日
  • 読了時間: 3分

 学校の教科に美術と音楽は無用という人がいる。

 それを言っていたら、他の科目でも同じだろうが、美術と音楽は趣味の要素が比較的多いから、言う人がいるのだろう。また、興味が無い人にとっては退屈または苦痛だし、専門的にやりたい人にとっては物足りないどころではすまない。

 だから、やりたい人は他所でやれば良いという発想も出るのだろう。


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 小学校と中学校の音楽の授業で教師に怒鳴られたことがあった。

 どちらも授業に余所見をしたからで、つい窓の外に視線が行った。小学校の時は走っていて転んだ人が見えたからで、中学校の時は航空自衛隊機が飛んでいたからだった。それに目もくれず授業に集中しろと言われたけれど、つまらないのだから仕方無かった。

 これは笑える話である。


 あと、今でも思い出すと頭に来るのは、小学三年生の時だ。

 教科書に載っている歌について「知っている人」と教師の女性が言うので手を上げたら自分一人だけたった。そんなはずない有名な歌なのに。すると教師が「なら唄いなさい」と命ずるから「聞いたことがあるだけで歌えるほどではありません」と言ったのに「唄えと言ったら唄え」と凄まじい形相で言い、うろ覚えだし、恥ずかしいけど、なんとか唄ったら、女教師は「よく知ってますね」とも「よろしい」とも言わず憮然としていた。

 あれはなんだったのか。他の人から指摘されたけれど、知っていたのは音大の付属幼稚園で習っていたからで、それが教師としては面白くなかったのだろうということだ。この人は小学校教師だから全教科を教えていただけだったので。


 高校では音楽の教師に呼び出された。

 よくある姓なので同じ組に同姓の男子がいて、そいつから「お前と間違えられて呼び出された」と文句を言われ「呼び出されたのはアンタだから」と。

 それで音楽教師のところに行って「何の用ですか」と言ったら、彼が顧問の音楽部に入れと言う。興味が無いし、なんで自分を勧誘するのかと質問したら、彼が担当している生徒の中で断トツ音楽の成績が良いからだと言う。それは普通科だからで、その程度では音楽大学の付属高校だったら話にならない水準だ。

 それでも、この武蔵野音大卒の男性教師にとっては、それなりに感じたのだろう。童謡メダカの学校の替え歌で「♪武蔵野音大は山の中~」にしても、この教師はバイオリン科だったにしてもピアノが下手糞と生徒から言われていたし、音楽史の授業で当時としてはセンセーショナルだったストラビンスキーのバレエ音楽『春の祭典』をレコードで聴いている時に「『スターウォーズ』の音楽みたいだね」と言うから「それをいうなら『ジョーズ』でしょう。同じ作曲家だけど」と指摘したこともあった。


 美術でも色々あったが挙げていたらきりがない。

 とにかく、こういうことがあるから、音楽と美術は学校の教科としては如何かと言い出す人もいるのだろう。

 
 
 
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