選択制夫婦別姓について、国会でケリをつけたい。
立憲党の野田代表が表明したそうだが、これは制度を作って当たり前で与野党の大体が賛成なのに自民党の一部だけが猛反対で妨害がされていたことに対してのことだ。
かつてもう一人の野田すなわち自民党の野田聖子議員は、夫婦別姓もいいではないかと発言していた。女性の自民党議員で旧姓を名乗っている人は何人もいる。その人たちも自分で旧姓を議員として名乗っておきながら夫婦別姓に反対しているという滑稽なことがある。
ところが、野田聖子議員は夫婦別姓を肯定していて、これに対して、ある自民党の男性の議員から、田舎では駄目だと言われていた。テレビに出演していたときのことだ。田舎の他に宗教団体が反対している。ということは因習である。そんなものに合わせることは無いというのが常識だろう。ところが常識とは違う発想がある。それが田舎と宗教なのだから、むしろ当然である。
それで不当に得をする人たちも少しはいる。それで因習が続くのだ。
かつて椎名誠のエッセイにあったが、誰だか知らない人から結婚式の招待状が来て、その片方の姓には憶えがあり、これは知り合いの親だったと気づくというように、日本の結婚式は奇妙である。
今時、封建時代のように家の結婚式だということで結婚する当人ではなく親の名義で招待状というのは間違ってないかと思う人は多い。それでも自分の親または相手方の親に押し切られる。結婚する当人ではなく家族が主催者になるのだから、葬式と同じである。当人は死んでいるのも同然だ。もともと結婚式は恋愛の葬式のようなものである。
しかし、子供を虐待しておいて、結婚式には主催者となり、香典と同様に祝儀を家族がもらってしまうことがある。こういうことができるから、封建的だと好都合なのだ。
結婚したら同姓を強制しているのは日本だけである。
だから世界中で困っていないのに日本だけ困るということはあり得ない。それでも日本独特のものだからとこだわっている人たちがいる。なにもいいことが無いのに、日本だけのものだから良さがなくても維持したいということだ。
これは未開の蛮族が、土俗的なアイデンティティを保ちたくて奇習を続けているのと同じである。独特な文化ではなく珍奇さでしかないが、それしか持っていないから仕方ない。日本は違うけれど、それが駄目だと言って未開野蛮になれという人たちがいて、それが昔から自民党に影響を及ぼしてきた。
それでも、やりたい人だけ同姓にすればいい。それが駄目で強制して欲しいというのは自信がないからだ。みんな同じにしていれば、無意味なことにこだわっていることに気づかれにくい。その程度のことである。
だから、案外、夫婦別姓を国民すべてに強制することにしたほうが、別姓選択可に反対していた人たちから賛成されるかもしれない。