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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 4月23日
  • 読了時間: 3分

 オウム真理教事件の当時、空中浮揚して見せる弁護士がいた。

 これは、オウム教の教祖が信者に空中浮揚して見せたことに対して、自分でも出来ると言ってのことだ。ちょっと得意になっている様子だった。

 それが最近、これはあの時の印象だけでなく、やはりほんとうに得意になっていると確信させることがあった。なんとSNSのアカウントに、空中浮揚して見せる自分の写真を掲せていたのだ。

 これを知ったのは、その弁護士が他の弁護士を批判するなどの行為があって、それに反感を持った人達が騒いだため、であるが、その騒ぎには関心がない。



 この弁護士はオウム真理教事件の当時テレビに何度も出ていた。

 そのさいの言動が「気持ち悪い」と不評だった。ただし、あの当時テレビに出てオウム真理教を非難する人達は、だいたい評判が悪かった。そんな連中しかいないのかと言ってテレビは批判されていた。それは番組を製作する姿勢が不真面目だから、そんな連中ばかり出すのだと指摘されていた。そんな中の一人が空中浮揚して見せる弁護士であったにすぎないが、その弁護士はカメラ目線で奇妙な語りをするから、この方がよほどカルト宗教的だと言われて気持ち悪がられたのだった。

 そこで問題なのは、その弁護士がオウム真理教を批判するネタとして、自分だって空中浮揚することができる、という的外れな話をしたからだった。   

 

 あの教祖は、空中浮揚を超能力のように言っていた。

 これに対して、その弁護士は「私にもできます」と言った。まるで自分にも超能力があると言っているように。もちろん、超能力なんてありえないとの前提で、超能力はトリックだと言いたかったのだろう。そう言えば済むことであるから、なにも自分で空中浮揚して見せる意味はない。

 なのに無意味なことをして見せるから、オウム真理教の信者は否定して言った。教祖は浮揚すると空中で停止したうえでゆっくりと降りてきたのであり、その弁護士のやっているように飛び上がるのとは違う、と。

 これも、一旦飛び上がれば後は力を入れて似たような動きができるのだから、念で浮く超能力である証明にはならないけれど、その弁護士が超能力であることを否定しようとして「私にもできます」なんて言うから、それを否定しようとして信者が言い返したのだった。


 そもそも、教祖が信者を得たのは超能力によってではない。

 あたりまえである。宗教は先ず教義を信じることから始まるのだから。そして実際にどうかとは関係なく超能力だと信させることにも成功したのだ。他のことも信じさせたうえで。

 それに対して超能力ではないと言っても本当の否定にはならない。「鰯の頭も信心から」というやつで、いくら鰯の頭を否定しても信じる心の否定にはならない。なのにあんなやり方をするとしたら、その弁護士も空中浮揚を超能力と称して教祖になって信者を獲得できてから実は嘘だと告白して騙されてはいけないと言うことで始めて否定になる。でも、それは無理だろう。あの教祖にはカリスマ性があったのだから。喩えば、アイドル歌手の歌唱力に対して、その程度なら自分だってと不細工なオッサンがカラオケで歌ったところで恥ずかしいだけ、というのと同じである。


 これはオウム真理教事件の当時から視聴者に指摘されていた。

 あれから随分と経過したというのに、その弁護士はサッパリ気づいていないということだったのだ。これをSNSのアイコンに載せている空中浮揚の写真から知った。

 そして困るのは、そんな宗教の厄介さと信教の自由などの法的な問題について、弁護士がまったく解っていないことに、なのだ。解からない弁護士は圧倒的に多いが、それでもマスメディアが不真面目に取り上げるから、なおさら迷惑するのだ。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 1月29日
  • 読了時間: 5分

更新日:1月30日

 「断捨離」とか「捨て活」とか言うのが流行っている。

 周囲を取り囲む持ち物は必要最小限という「ミニマリスト」というのも居て、インフルエンサーの一種として発信している。こうなるわけの一つは、かつて昭和時代といわれる時期に、自宅に物がぎゅうぎゅう詰めが当たり前で、なんでもいいから物を持っているのが不安を紛らわせる、という価値観が幅を効かせていたから、このことに対するアンチテーゼである。

 ただ、あの当時でも、豊かな家は整然としていて、貧しい家は乱雑というのが、よくあったことだった。それは高収入の人ほど広い家だから片付いていて低所得者は家が狭いから片付かない、と思われがちだったけれど、そうではなく貧乏症の人は無用な物を抱え込むだけだということが昔から指摘され言われていた。


 このことはテレビのドラマやアニメにも描かれていた。

 これは70年代あたりからだ。ここで例えば主人公の母親が、空き瓶でも何でもかんでも全く具体性が無い目的でとっておくから、無用なガラクタが自宅内に溜まってしまい、それで小学生の主人公が母親に、用もないものは邪魔になるだけだと注意しても、母親は「でも、もしかしたらいつか使うかもしれない」と言って仕舞い込むから、使いもしない物で戸棚そのほか収納の場が無駄になったまま、という話があって、これをテレビを見た人たちは実際によくあることだと言って笑っていたものだ。そういう「いつか使える」の「いつか」は永遠に来ないと言われている。

 また、この他にも現実として、今は知らないが昔は、よく、壊れたりで使えなくなったから捨てると、それを母親がゴミ箱から摘み出して「まだ使える」と子供に押し付け、では何にどう使うのかと訊いても回答がなく、まだ使える気がなんとなくするということでしかない、ということがよくあったのだ。これは貧乏性であることや、物を大切にする気はあってもどうするのか工夫などをする知恵がさっぱり無いという滑稽なことだった。



 余計なものを処分すれは運気が上がるとも言う。

 それは精神的な影響だが、オカルト的に言いたがる人もいる。それで、よく風水を引き合いに出したりするわけだ。

 ところが、無用な物や気に入らない物は勿体ないと言わず処分するべきで、そうすれば気分がさっぱりするだけでなく運気が良くなると言っている人達がいるけど、その最たる神棚と仏壇を捨ててしまえば幸せになれるという明々白々な事実を説く人が見当たらない。何年も放置した札などを神社で「お炊き上げ」してもらい気持ちにメリハリをつけろとは言う人ならいるが。

 そもそも神棚と仏壇そのものが無意味で無駄なのに、おそらく狂信者の反発を恐れているのだろう。神棚と仏壇なんて捨ててしまえば幸せになれるし、お焚き上げも塩で浄める必要も一切なく、ただのゴミとして捨てればいいだけのことであるから実に簡単だ。守るべきは各自治体で決められた分別だけだ。ガラクタを「いつか使える」と抱えこんでも「いつかは」は永遠に来ないのと同じで、ご利益なんて無い。過去に在ったことが全く無いのだから、今後も未来永劫無い。木の箱に呪文みたいな字を書いた木片を入れて、それに向かって手を合わせると良いことがあるなら楽でいい。世界から戦争も貧困も無くなる。でも、そんなこと無い。  また、どんなに神棚と仏壇を粗末にしようとバチが当たることだけは絶対にない。当たり前である、神も仏も存在しないのだから。もしも神仏が実在し、悪いことした人に罰を与えるとしたら、空っぽの木の箱に神仏が入っているという詐欺で金儲けしている人たちに対してだろう。


 神や仏が存在すると言っている人たちは、それを商売にして嘘ついている。

 もしも本気なら、ただの妄想である。そんな人は絶対に統合失調症である。このことはとっくに証明されている。どんな宗教でも、ほんとうの信仰心とは宗教の基礎となっている思想と哲学であり、売っている商品は全く関係ない。あとは思想と哲学から発生した歴史的な芸術品に価値があるだけで、その貧弱な贋作が神社仏閣で販売されている下らない土産物の商品なのである。

 そして最悪の金儲けが神棚と仏壇であり、統一協会が売る呪いの壺と同じである。買うだけ金の無駄であり、そんなものを持っているのはナンセンスであるだけでなく精神に対して損害である。家賃や固定資産税のため住居の空間は有料であり、それをガラクタ置き場と化し無駄にしたうえ美観まで損ね、権力と癒着した宗教が支配に利用するため産土神やら檀家やらに囲い込み奴隷根性を植え付けて人の健全な精神を蝕むための道具が神棚と仏壇である。

 

 こんな汚らわしい物に拘泥するのは、まず暴力団である。

 それ以外の人も田舎の会社経営者などなんらかの形でヤクザな人たちである。警察署にも神棚があるけれど、これは警察が桜の代紋を掲げた全国最大の組織であるからで、だから政教分離原則違反を平気でしているし、腐敗堕落の巣窟なのが実態だ。

 そうした品性下劣な人たちと違う自分は、くだらない形式にこだわらず、信仰心なら内に秘めたうえで実践するのだと肝に銘じれば、精神が浄められることだけは確かである。もしも神仏が存在したら、神棚と仏壇は止せ、そんなもの信仰とは関係ない、信仰を装うだけのものだ、と言うだろう。言わないのは神も仏も存在しないからだ。だから断捨離するなら真っ先に神棚と仏壇を捨てなさい。それも自治体の分別に従い只のゴミとして。


 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年10月27日
  • 読了時間: 4分

 エホバの証人の信者を親に持つ子供が家出の話をしていた。

 これは、親が信仰を押し付けるので嫌になったからだという。それでエホバの証人を叩いている人たちがいる。しかし、宗教の信仰や政治的な思想信条を自分の子供に押し付ける人は、とてもよくある話であるから、この問題はエホバの証人だけに限らない。他にもセクハラとか児童虐待とか、宗教団体には付き物の問題である。

 それに、エホバの証人の教義が極めて独特であるから、それに総て従おうとしたら狂信的に見えて当然のことではあるけれど、狂信者になるのは教義よりむしろ信者の事情による。


 あの『キャリー』という小説に描かれているのが有名だ。

 これは映画化が良く知られていて再映画もされているが、大ヒットして作者も一躍ベストセラー作家になった最初の映画化では、主人公が育ったのは母子家庭であることまでは判るが、そうなった経緯については説明不足である。

 原作の小説では、主人公の父親は労働災害で死亡したと説明されている。建設作業員だったから、事故の危険は他の仕事より多い。ところが主人公の母親は、夫の事故死のショックから、信仰している宗教の戒律を遵守しなかったから天罰だと思い込み、教義に忠実であろうと必死になる。そして通っていたキリスト教会は「根本主義」と言われる宗派なので、聖書を一字一句まで忠実に現代の生活にあてはめようとするから、それを徹底遵守する母親は傍から見ると全く狂信者である。

 

 どんな宗教も、戒律をどこまで忠実に守るかは信者に委ねられている。

 これはエホバの証人も同じで、例えば特に特異な教義であり宗教学者たちから聖書の曲解だと批判されている、あの血を取り入れてはいけないという戒律も、それで菜食主義になっている信者もいれば、肉を絞ってオカラみたいにして食べている信者もいるし、病気や怪我での輸血は個々の信者の判断である。そして実際には、輸血すれば絶対に助かり、しないと確実に死ぬ、という事態はほとんど無いに近いから、あまり問題にならならいのが現実である。

 つまり、問題になるとしたら、自分のことを自分で判断するだけならいいが、親が自分の子供にどこまで強いて良いかという点である。



 また、自分の意思で信者を辞めることについてエホバの証人は比較的寛容である。

 これに比べたら、もっと不寛容な宗教団体はたくさんある。特に悪名高いのが創価学会で、脅したり強要したりは当たり前。かつては創価学会から抜けたくて困っている人を、自民党と共産党が一緒に協力して脱退させていた。それが公明党との連立で自民党は協力しなくなった。しかし連立が解消されたから、また自民党も協力してくれるようになってくれたら結構なことである。

 こうしてみると、エホバの証人ばかり叩かれるのは不当である。


 これは、エホバの証人が神を尊重していることが原因である。

 なんで神を尊重する宗教だから叩かれるのか。神が優先だから、世俗のものは優先順位が低く、これは政治に対しても同じであるから。それで、権力を恐れない。このため実際にエホバの証人は非暴力主義や戦争反対で功績がある。輸血の問題も、ハイリスクなのに安易だった医学界が慎重になったのはエホバの証人が騒動となったお陰様である。

 だいたい、宗教団体は処世術で権力に媚びる。統一協会など、あれだけタチの悪いことをしまくっても政治家と癒着しているからお咎めなしである。

 それに対してエホバの証人は、権力者より神が偉いということを徹底している。それで厄介だから叩かれるのだ。

 だからエホバの証人の特異な教義に顔をしかめても、安易なバッシングに同調してはならない。良く知ると見直すことがあるほどなのだから。


 もちろん、創価学会や統一協会に比べたら、どんな宗教団体もマシだと言えてしまう、と怒られそうであるが、このことは別の問題である。


 

 
 
 
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