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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 10月27日
  • 読了時間: 4分

 エホバの証人の信者を親に持つ子供が家出の話をしていた。

 これは、親が信仰を押し付けるので嫌になったからだという。それでエホバの証人を叩いている人たちがいる。しかし、宗教の信仰や政治的な思想信条を自分の子供に押し付ける人は、とてもよくある話であるから、この問題はエホバの証人だけに限らない。他にもセクハラとか児童虐待とか、宗教団体には付き物の問題である。

 それに、エホバの証人の教義が極めて独特であるから、それに総て従おうとしたら狂信的に見えて当然のことではあるけれど、狂信者になるのは教義よりむしろ信者の事情による。


 あの『キャリー』という小説に描かれているのが有名だ。

 これは映画化が良く知られていて再映画もされているが、大ヒットして作者も一躍ベストセラー作家になった最初の映画化では、主人公が育ったのは母子家庭であることまでは判るが、そうなった経緯については説明不足である。

 原作の小説では、主人公の父親は労働災害で死亡したと説明されている。建設作業員だったから、事故の危険は他の仕事より多い。ところが主人公の母親は、夫の事故死のショックから、信仰している宗教の戒律を遵守しなかったから天罰だと思い込み、教義に忠実であろうと必死になる。そして通っていたキリスト教会は「根本主義」と言われる宗派なので、聖書を一字一句まで忠実に現代の生活にあてはめようとするから、それを徹底遵守する母親は傍から見ると全く狂信者である。

 

 どんな宗教も、戒律をどこまで忠実に守るかは信者に委ねられている。

 これはエホバの証人も同じで、例えば特に特異な教義であり宗教学者たちから聖書の曲解だと批判されている、あの血を取り入れてはいけないという戒律も、それで菜食主義になっている信者もいれば、肉を絞ってオカラみたいにして食べている信者もいるし、病気や怪我での輸血は個々の信者の判断である。そして実際には、輸血すれば絶対に助かり、しないと確実に死ぬ、という事態はほとんど無いに近いから、あまり問題にならならいのが現実である。

 つまり、問題になるとしたら、自分のことを自分で判断するだけならいいが、親が自分の子供にどこまで強いて良いかという点である。


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 また、自分の意思で信者を辞めることについてエホバの証人は比較的寛容である。

 これに比べたら、もっと不寛容な宗教団体はたくさんある。特に悪名高いのが創価学会で、脅したり強要したりは当たり前。かつては創価学会から抜けたくて困っている人を、自民党と共産党が一緒に協力して脱退させていた。それが公明党との連立で自民党は協力しなくなった。しかし連立が解消されたから、また自民党も協力してくれるようになってくれたら結構なことである。

 こうしてみると、エホバの証人ばかり叩かれるのは不当である。


 これは、エホバの証人が神を尊重していることが原因である。

 なんで神を尊重する宗教だから叩かれるのか。神が優先だから、世俗のものは優先順位が低く、これは政治に対しても同じであるから。それで、権力を恐れない。このため実際にエホバの証人は非暴力主義や戦争反対で功績がある。輸血の問題も、ハイリスクなのに安易だった医学界が慎重になったのはエホバの証人が騒動となったお陰様である。

 だいたい、宗教団体は処世術で権力に媚びる。統一協会など、あれだけタチの悪いことをしまくっても政治家と癒着しているからお咎めなしである。

 それに対してエホバの証人は、権力者より神が偉いということを徹底している。それで厄介だから叩かれるのだ。

 だからエホバの証人の特異な教義に顔をしかめても、安易なバッシングに同調してはならない。良く知ると見直すことがあるほどなのだから。


 もちろん、創価学会や統一協会に比べたら、どんな宗教団体もマシだと言えてしまう、と怒られそうであるが、このことは別の問題である。


 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 8月15日
  • 読了時間: 2分

 八月十五日は終戦の日ではない。

 もちろん終戦の日は九月二日である。それまで戦争は終わってないから、散発的に戦闘は続いていたし、日本と戦争をしていた国々で終戦の日は九月二日としている。戦争は相手があるから、戦争を終わらせることで相手と合意しなければならない。その合意で日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏の文書に調印したのが九月二日である。これで戦争が終わったのだ。

 ならば八月十五日は何なのか。


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 八月十五日は日本が戦争で勝つことを諦めると発表しただけ。

 だから戦争が終わってない。それなのに、どういうわけか終戦の日と言っているが、実は敗戦の日だ。にもかかわらず靖国神社に参拝する人たちがいる。敗戦の屈辱と無念そして戦争の犠牲者を弔うのではなく、国の為に戦争で命を捧げた英雄を称えると言っている。戦争で負けたのに。それも惨敗であったのに。

 なんで、勝ってもいないのに、英雄を称えるのか。これは日本独特の信仰によるものだ。


 無念の死を遂げた人を神として祭り煽てる習慣が日本に昔からある。

 これは怨念・怨霊を恐れてのことだ。日本人は、殺しておいて、死んだら霊を恐れる。湯島天神の菅原道真や、怪談お岩の亡霊を、祟らないように神として祀る。だったら殺さなければいいのだが、そういう発想にならない日本人の奇妙さである。

 だから靖国神社も、戦争で死んだ人達が祟らないように神として祀っている。もとから英霊とは、戦争で勝つことに貢献した人のことではないのだ。

 

 これだから、日本人は軽々しく戦争を始める。

 そして負けても平気でいる。悲惨な目に遭っても、そこから反省しない。この、宗教というよりオカルト信仰から日本人が脱しないと改まらないのだが、もともと日本人は宗教に関心が乏しいから、自分の社会に昔からある奇妙な信仰に気づかない。

 これが原因で、敗戦の日に、惨敗した戦争で非業の死をとげた同胞を英霊として称えて何か意味があると思い込む。そして戦争と平和という大事な話を真面目に考えることができなくなっているのだ。


 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 7月19日
  • 読了時間: 2分

 米が無くなると神道が無くなる。

 参政党の神谷代表が選挙演説で言った。宗教のために米があるのではなく、主食である。米がなくても他のものを主食にすればいい状態ならともかく、今はまだ米が必要だ。それなのに、政治家が政策ではない観念的な話をしているのだから、呑気なものである。

 では、米と神道が関係あるのか。


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 米づくりしないと稲荷神社は無用になる。

 あれは自然の恵みに感謝し、収穫された米を病害虫から守るための祈願である。だから稲作が無くなれば稲荷神社も無くなる。

 米を作る田んぼがあれば、その地域に稲荷神社があるものだ。それで、周囲では犬を飼うことができない。稲荷を守る狐が犬を嫌うからだ。

 これが北海道にもある。ところが、北海道では先住民族のアイヌが狩猟民族だったのに、侵略されて土地は天皇のものとされ、主食の鮭を取れば密漁として逮捕された。そして稲作を強制された。 


 参政党は小麦を押しつけたアメリカを批判している。

 アメリカ大陸ではヨーロッパ人の侵略により、先住民族は慣れ親しんでいない小麦を強制されて体調を悪くした、という歴史がある。

 これと同じことを、日本人は米で他の民族にやっていた。こういうことを参政党の人達は意識の中から必死で追い払う発言をしている。


 日本人の食生活は米によって貧しくなった。

 米が外から入ってきてから、労働はきつくなり、貧富の差ができて、食生活から多様性が失われ、経済力を測る尺度となった米ばかり作られさて飢饉が起きるようになった。米に依存するのはもう嫌だと日本人は昔から思ってきた。それで米の消費は減り、生産者も居なくなってきた。

 だから参政党に限らず、まだ米が必要だと言うための拠り所に宗教をもってくる。


 天皇が田植えをして見せる。

 これは日本に稲作を持ち込んで得た権威を見せると当時に豊作を祈願するためだ。それなのに大臣を承認し任命する仕事をするようになった。これは中国から律令制度を輸入したさい真似したからだ。 こういうことを、中国の真似を排除せよと主張する自称保守派は言わない。なにも考えておらず適当に言っているだけなのだ。

 それが国政に割り込んできた。政治のひどい荒廃である。


 

 

 
 
 
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