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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 1 日前
  • 読了時間: 5分

更新日:10 時間前

 「断捨離」とか「捨て活」とか言うのが流行っている。

 周囲を取り囲む持ち物は必要最小限という「ミニマリスト」というのも居て、インフルエンサーの一種として発信している。こうなるわけの一つは、かつて昭和時代といわれる時期に、自宅に物がぎゅうぎゅう詰めが当たり前で、なんでもいいから物を持っているのが不安を紛らわせる、という価値観が幅を効かせていたから、このことに対するアンチテーゼである。

 ただ、あの当時でも、豊かな家は整然としていて、貧しい家は乱雑というのが、よくあったことだった。それは高収入の人ほど広い家だから片付いていて低所得者は家が狭いから片付かない、と思われがちだったけれど、そうではなく貧乏症の人は無用な物を抱え込むだけだということが昔から指摘され言われていた。


 このことはテレビのドラマやアニメにも描かれていた。

 これは70年代あたりからだ。ここで例えば主人公の母親が、空き瓶でも何でもかんでも全く具体性が無い目的でとっておくから、無用なガラクタが自宅内に溜まってしまい、それで小学生の主人公が母親に、用もないものは邪魔になるだけだと注意しても、母親は「でも、もしかしたらいつか使うかもしれない」と言って仕舞い込むから、使いもしない物で戸棚そのほか収納の場が無駄になったまま、という話があって、これをテレビを見た人たちは実際によくあることだと言って笑っていたものだ。そういう「いつか使える」の「いつか」は永遠に来ないと言われている。

 また、この他にも現実として、今は知らないが昔は、よく、壊れたりで使えなくなったから捨てると、それを母親がゴミ箱から摘み出して「まだ使える」と子供に押し付け、では何にどう使うのかと訊いても回答がなく、まだ使える気がなんとなくするということでしかない、ということがよくあったのだ。これは貧乏性であることや、物を大切にする気はあってもどうするのか工夫などをする知恵がさっぱり無いという滑稽なことだった。



 余計なものを処分すれは運気が上がるとも言う。

 それは精神的な影響だが、オカルト的に言いたがる人もいる。それで、よく風水を引き合いに出したりするわけだ。

 ところが、無用な物や気に入らない物は勿体ないと言わず処分するべきで、そうすれば気分がさっぱりするだけでなく運気が良くなると言っている人達がいるけど、その最たる神棚と仏壇を捨ててしまえば幸せになれるという明々白々な事実を説く人が見当たらない。何年も放置した札などを神社で「お炊き上げ」してもらい気持ちにメリハリをつけろとは言う人ならいるが。

 そもそも神棚と仏壇そのものが無意味で無駄なのに、おそらく狂信者の反発を恐れているのだろう。神棚と仏壇なんて捨ててしまえば幸せになれるし、お焚き上げも塩で浄める必要も一切なく、ただのゴミとして捨てればいいだけのことであるから実に簡単だ。守るべきは各自治体で決められた分別だけだ。ガラクタを「いつか使える」と抱えこんでも「いつかは」は永遠に来ないのと同じで、ご利益なんて無い。過去に在ったことが全く無いのだから、今後も未来永劫無い。木の箱に呪文みたいな字を書いた木片を入れて、それに向かって手を合わせると良いことがあるなら楽でいい。世界から戦争も貧困も無くなる。でも、そんなこと無い。  また、どんなに神棚と仏壇を粗末にしようとバチが当たることだけは絶対にない。当たり前である、神も仏も存在しないのだから。もしも神仏が実在し、悪いことした人に罰を与えるとしたら、空っぽの木の箱に神仏が入っているという詐欺で金儲けしている人たちに対してだろう。


 神や仏が存在すると言っている人たちは、それを商売にして嘘ついている。

 もしも本気なら、ただの妄想である。そんな人は絶対に統合失調症である。このことはとっくに証明されている。どんな宗教でも、ほんとうの信仰心とは宗教の基礎となっている思想と哲学であり、売っている商品は全く関係ない。あとは思想と哲学から発生した歴史的な芸術品に価値があるだけで、その貧弱な贋作が神社仏閣で販売されている下らない土産物の商品なのである。

 そして最悪の金儲けが神棚と仏壇であり、統一協会が売る呪いの壺と同じである。買うだけ金の無駄であり、そんなものを持っているのはナンセンスであるだけでなく精神に対して損害である。家賃や固定資産税のため住居の空間は有料であり、それをガラクタ置き場と化し無駄にしたうえ美観まで損ね、権力と癒着した宗教が支配に利用するため産土神やら檀家やらに囲い込み奴隷根性を植え付けて人の健全な精神を蝕むための道具が神棚と仏壇である。

 

 こんな汚らわしい物に拘泥するのは、まず暴力団である。

 それ以外の人も田舎の会社経営者などなんらかの形でヤクザな人たちである。警察署にも神棚があるけれど、これは警察が桜の代紋を掲げた全国最大の組織であるからで、だから政教分離原則違反を平気でしているし、腐敗堕落の巣窟なのが実態だ。

 そうした品性下劣な人たちと違う自分は、くだらない形式にこだわらず、信仰心なら内に秘めたうえで実践するのだと肝に銘じれば、精神が浄められることだけは確かである。もしも神仏が存在したら、神棚と仏壇は止せ、そんなもの信仰とは関係ない、信仰を装うだけのものだ、と言うだろう。言わないのは神も仏も存在しないからだ。だから断捨離するなら真っ先に神棚と仏壇を捨てなさい。それも自治体の分別に従い只のゴミとして。


 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年10月27日
  • 読了時間: 4分

 エホバの証人の信者を親に持つ子供が家出の話をしていた。

 これは、親が信仰を押し付けるので嫌になったからだという。それでエホバの証人を叩いている人たちがいる。しかし、宗教の信仰や政治的な思想信条を自分の子供に押し付ける人は、とてもよくある話であるから、この問題はエホバの証人だけに限らない。他にもセクハラとか児童虐待とか、宗教団体には付き物の問題である。

 それに、エホバの証人の教義が極めて独特であるから、それに総て従おうとしたら狂信的に見えて当然のことではあるけれど、狂信者になるのは教義よりむしろ信者の事情による。


 あの『キャリー』という小説に描かれているのが有名だ。

 これは映画化が良く知られていて再映画もされているが、大ヒットして作者も一躍ベストセラー作家になった最初の映画化では、主人公が育ったのは母子家庭であることまでは判るが、そうなった経緯については説明不足である。

 原作の小説では、主人公の父親は労働災害で死亡したと説明されている。建設作業員だったから、事故の危険は他の仕事より多い。ところが主人公の母親は、夫の事故死のショックから、信仰している宗教の戒律を遵守しなかったから天罰だと思い込み、教義に忠実であろうと必死になる。そして通っていたキリスト教会は「根本主義」と言われる宗派なので、聖書を一字一句まで忠実に現代の生活にあてはめようとするから、それを徹底遵守する母親は傍から見ると全く狂信者である。

 

 どんな宗教も、戒律をどこまで忠実に守るかは信者に委ねられている。

 これはエホバの証人も同じで、例えば特に特異な教義であり宗教学者たちから聖書の曲解だと批判されている、あの血を取り入れてはいけないという戒律も、それで菜食主義になっている信者もいれば、肉を絞ってオカラみたいにして食べている信者もいるし、病気や怪我での輸血は個々の信者の判断である。そして実際には、輸血すれば絶対に助かり、しないと確実に死ぬ、という事態はほとんど無いに近いから、あまり問題にならならいのが現実である。

 つまり、問題になるとしたら、自分のことを自分で判断するだけならいいが、親が自分の子供にどこまで強いて良いかという点である。



 また、自分の意思で信者を辞めることについてエホバの証人は比較的寛容である。

 これに比べたら、もっと不寛容な宗教団体はたくさんある。特に悪名高いのが創価学会で、脅したり強要したりは当たり前。かつては創価学会から抜けたくて困っている人を、自民党と共産党が一緒に協力して脱退させていた。それが公明党との連立で自民党は協力しなくなった。しかし連立が解消されたから、また自民党も協力してくれるようになってくれたら結構なことである。

 こうしてみると、エホバの証人ばかり叩かれるのは不当である。


 これは、エホバの証人が神を尊重していることが原因である。

 なんで神を尊重する宗教だから叩かれるのか。神が優先だから、世俗のものは優先順位が低く、これは政治に対しても同じであるから。それで、権力を恐れない。このため実際にエホバの証人は非暴力主義や戦争反対で功績がある。輸血の問題も、ハイリスクなのに安易だった医学界が慎重になったのはエホバの証人が騒動となったお陰様である。

 だいたい、宗教団体は処世術で権力に媚びる。統一協会など、あれだけタチの悪いことをしまくっても政治家と癒着しているからお咎めなしである。

 それに対してエホバの証人は、権力者より神が偉いということを徹底している。それで厄介だから叩かれるのだ。

 だからエホバの証人の特異な教義に顔をしかめても、安易なバッシングに同調してはならない。良く知ると見直すことがあるほどなのだから。


 もちろん、創価学会や統一協会に比べたら、どんな宗教団体もマシだと言えてしまう、と怒られそうであるが、このことは別の問題である。


 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年8月15日
  • 読了時間: 2分

 八月十五日は終戦の日ではない。

 もちろん終戦の日は九月二日である。それまで戦争は終わってないから、散発的に戦闘は続いていたし、日本と戦争をしていた国々で終戦の日は九月二日としている。戦争は相手があるから、戦争を終わらせることで相手と合意しなければならない。その合意で日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏の文書に調印したのが九月二日である。これで戦争が終わったのだ。

 ならば八月十五日は何なのか。



 八月十五日は日本が戦争で勝つことを諦めると発表しただけ。

 だから戦争が終わってない。それなのに、どういうわけか終戦の日と言っているが、実は敗戦の日だ。にもかかわらず靖国神社に参拝する人たちがいる。敗戦の屈辱と無念そして戦争の犠牲者を弔うのではなく、国の為に戦争で命を捧げた英雄を称えると言っている。戦争で負けたのに。それも惨敗であったのに。

 なんで、勝ってもいないのに、英雄を称えるのか。これは日本独特の信仰によるものだ。


 無念の死を遂げた人を神として祭り煽てる習慣が日本に昔からある。

 これは怨念・怨霊を恐れてのことだ。日本人は、殺しておいて、死んだら霊を恐れる。湯島天神の菅原道真や、怪談お岩の亡霊を、祟らないように神として祀る。だったら殺さなければいいのだが、そういう発想にならない日本人の奇妙さである。

 だから靖国神社も、戦争で死んだ人達が祟らないように神として祀っている。もとから英霊とは、戦争で勝つことに貢献した人のことではないのだ。

 

 これだから、日本人は軽々しく戦争を始める。

 そして負けても平気でいる。悲惨な目に遭っても、そこから反省しない。この、宗教というよりオカルト信仰から日本人が脱しないと改まらないのだが、もともと日本人は宗教に関心が乏しいから、自分の社会に昔からある奇妙な信仰に気づかない。

 これが原因で、敗戦の日に、惨敗した戦争で非業の死をとげた同胞を英霊として称えて何か意味があると思い込む。そして戦争と平和という大事な話を真面目に考えることができなくなっているのだ。


 

 
 
 
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