top of page

​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 7月9日
  • 読了時間: 3分

 予言が話題になっていたらしい。

 そんなことは一部でのことだろう。地震か何か危険なことの予言だったのか、なんであれ詳しいことを知る価値はないだろう。

 ところが、ここで奇妙なことを言い出す人がいる。これは年配の人である。今は年配の人なら、子供のころに話題だった『ノストラダムスの大予言』が外れたことによって馬鹿らしさを知っているから騙されないけれど、今どきの若い人は免疫が無いというのだ。そんなことを言っている人の方が、あまりにも馬鹿らしい。おそらく頭の弱い子供だったはずだ。


 『ノストラダムスの大予言』は七十年代のベストセラーだ。

 この本は、ノストラダムスが書き残した当時の世相の記録を曲解して未来の予言であるとし、これまでに的中し続けたという歴史上の例を挙げて、それはことごとく牽強付会だった。

 そして、社会は混乱し破滅に近づき、最後は1999年7月に人類は滅亡する、という予言がされていて、これは核戦争が起きるということだろうという解釈だった。

 やはり売れただけに面白くて、当然のこと続編が次々と発行されるのだが、見事に二番煎じ三番煎じ四番煎じとなっていくので、出版社の意向をうけて著者は仕方なく書いているのが見え見えで、その続編を読んだ人は笑っていたものだ。


ree

 その本の趣旨は警鐘だった。

 これは子供でも解ることだった。予言が当たるかどうかはともかく、ほんとうに人類が破滅してしまわないように、環境汚染や核軍拡を食い止めようという訴えかけだった。

 そして、本を基にした映画が製作されると、異常気象や奇形生物の発生などの不気味な現象や、社会不安から集団自殺する若者たちなどが描かれ、最も恐ろしいのは核戦争であるということで軍事の記録映像と特撮映像の組み合わせによってディザスター見せ場が作られている。けれど物語では、その危機について国会で討議されたさい、それを人類の英知によって乗り越えようと首相が力説することで締めくくられるのだ。この演説は観念的で具体性がないけれど、何度も首相の役を演じている名優=山村聰の話術に観客は感動させられたものだった。


 「予言」のとおり人類は破滅してしまうと思った人は子供にも少なかった。

 ただ、「予言」とは別に、そうなる可能性もあり、だから、汚染や軍拡をやめないといけない、という警告として受け取られていた。

 そして実際に1999年7月になっても人類は滅亡しなかったけれど、その時に予言は外れたと一応は言っている人達がいた程度で、すでに『ノストラダムスの大予言』そのものが殆ど忘れられていて、知っている人でも、とっくに、あれは予言ではないと解っていたし、その前に「冷戦」が終了して核戦争の危機は遠のき、その代わり世界各地で民族紛争などの小競り合いから悲劇が起きることが増えていて、それをなんとかしないと悲惨だということに関心が向いていた。

 

 こういう社会常識を知らない年配者がいるわけだ。

 それもそのはず、『ノストラダムスの大予言』を間に受けていたけれど当たらなかったと戯けたことを言っているのだから、不勉強である以前に地頭が悪いのだ。そんな出来損ないの年配者が「我々はもう騙されないけど若い人たちは違う」などと言っている。

 今の「予言」にしても、おそらく遊びの感覚だろう。それを間に受けたと勝手な解釈をして、間に受けた先輩として勝手なことを言っている。そのように間に受けた人達は、話にならないほど極少数であるはずだ。


 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 7月8日
  • 読了時間: 2分

 完全に無くなったとは言い切れない。

 だけど、一昔前とは違って、選挙で「私を男にしてください」とか、その妻が「主人を男にしてやってください」とか、そういうことは言わなくなった。

 なんだあれは、という指摘は、何十年も前から出ていた。


ree

 例えば土井たか子衆議院議長が言っていた。

 そして、落選したら男じゃないのか、女性の候補者は「私を女にしてください」とは言わないでしょう、と言って笑っていた。

 つまり、権力志向のマッチョ願望から出る言葉ではないかと批判していたのだ。


 女性の候補者が「私を女にしてください」と言った話は伝わっている。

 それで聴衆から「どうすればいいんだ」と野次が飛んで、売り言葉に買い言葉で「私に入れてください」と言ってしまった。もちろん投票してという意味だが、変な意味になってしまうと気づいて、その候補者の女性は赤面していた。

 というのは雑誌に乗っていた小話なので、笑い話、作り話、の可能性がある。


 ただ、男にしてくださいと言うのは田舎の保守派ばかりだ。

 これは、名をあげたい、出世したい、ということだから、自民党の候補者を中心にして言われる言葉になる。そして田舎者は、そういうものだと思っている。社会の為に働かせて欲しいというのではなく、私利私欲である。

 それが最近は言われなくなったので、この点は洗練されてきたということではないか。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 7月7日
  • 読了時間: 2分

 世良公則が選挙に立候補した。

 これについて、ロックバンド=ソウルフラワーユニオンの中川敬が、SNSで、それを報じる記事を引用し「笑笑」と嘲った。

 これに対して「圧倒的に格上」の歌手に向かって笑うものではないという反応があり、すると「圧倒的に格上」とは可笑しいとしたうえで、世良公則のことを「この男はネトウヨ活動家」にすぎないなどと言葉を返した。

 その後は「格」はどうでもいいことで、「レイシストベテラン歌手」なんて存在が恥ずかしいと指摘していた。


ree

 世良公則は過去に一世風靡したような歌手ではあった。

 ただし、そのようなヒット曲を連発したのは七十年代のことである。もう半世紀が経とうとしている。かれこれ五十年近い過去のことで現在の「格」というのは変であるし、また世良公則は短い人気歌手の時期を過ぎた後は俳優として映画とテレビのドラマに出ていたけれど、そんな傑出した役者ということでもなかった。

 ということで、それ相当の芸能人だったのは過去のことであり、芸能人の推移とか浮き沈みとかは激しいから、その観点からすると本当に大昔のことである。まだ現役とは言っても地味というより細々とした活動しかしていない。それも、過去の芸風からすると現在すっかり老齢で衰弱している。


 それだから選挙に立候補するのだろう。

 これでは、ただでさえ今の同類芸能人に比して「格上」とはとうてい言えないのに、そのうえ衰退したあげくの立候補ということだから、そんな足掻きは客観的評価として恥ずかしいと言われてしまっても正当な評価であろう。

 しかも、中川敬が最も問題にしていたのは世良公則のレイシズム発言である。深く考えもせず最近の風潮に乗っかって排外主義的なアジテーションをしていた。それをベテランの芸能人がやっている。若気の至りどころか、老齢の域に入って見識が深まるのではなく、目立ちたがり屋の若造みたいにしている、というのが最近の世良公則である。

 

 こういう年寄りにはなりたくないものだ。

 あれは権勢に媚びて弱いもの虐めというやつであり、人間として最も恥ずかしいことだ。それが人生を積み重ねてもわからない。

 無駄に歳だけ取った男が、自我と前立腺ばかり肥大している典型である。

 
 
 
  • twitter

©2020 by 井上靜。Wix.com で作成されました。

bottom of page