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​炬火 Die Fackel 

 小川淳也が中道改革連合の代表になった。

 とたんに改憲論を肯定する発言をやらかした。そして、要するに自分はこの問題でアヤフヤなのだと言い訳していた。

 しょせん中道なんちゃらは、この程度の連中の寄り合いである。


 その弁解を正当化するため小川は事実に反することを言った。

 「自衛隊に対する国民の信頼が高まっている」だから改憲論を肯定した。そして「自分は積極的ではない」と。空々しくて醜いアヤフヤさ。こうすれば選挙で票が入るということか。そんなことは無いだろう。

 それに、自衛隊に対しての認識がひどすぎる。



 自衛隊は信頼されてない。

 実際には、権力と暴力で従わせ批判を封じているだけ。これはマスメディアが取り上げないから知らない国民が多く、また知っても怖くて信じようとしないのだ。実は被害に遭っている国民は多いし、そこには国会議員もいた。自衛隊を否定していない保守派の議員が、自衛隊に関係する政策を批判した程度のことで。

 こうした自衛隊の無法を司法に訴えても不公正な対応で握り潰されるし、政治家に陳情しても野党の左派だって怖がって逃げてばかりである。


 そこへ「自衛隊に対する国民の信頼が高まっている」と、きたものだ。

 これは現実を知らないのか、それとも知っていて抑圧の側に自分は回ろうというのか、どちらだろう。小川淳也は後者だろう。今回の件の発言からすると。だから「高まっている」と言ったのだ。こんなのは事実を無視していくらでも言える言葉だし、それを肯定しないと許さないという意味にしかならない。

 どこの組織にも、権力と暴力を志向する人がいて当たり前であるから、その点は注意しないといけないという常識を持つ人は現役自衛官にもいて、それを日常生活で普通に言っている。そうではない意識が低い自衛官も多数いるというだけのことだ。


 そもそも憲法の話と自衛隊を国民がどう思っているかの話は関係ない。

 つまり小川淳也という議員は他の中道なんちゃら連中と同じで、政治的センスが欠如しているから不適切な発言をやらかすし、憲法も自衛隊も議論するほどの知識が欠如していることが、今回の発言で明らかになった。

 それを恥じないでいるのは、政治家はアヤフヤが楽で良いと思っていて、国民は権力によって従わせればいいと信じているからだ。小川淳也はファシストである。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2月13日
  • 読了時間: 2分

 立憲党の右派は「右」を舐めていた。

 野田ら立憲内部の保守派は、リベラル臭を消せば選挙に勝てる、今の日本の傾向なら右に擦りよれば票が得られる、という勘違いをした。

 この勘違いは、ちょうど、無能な朝日新聞の経営者が政権にすり寄って読者を失うと同時に新しい読者の獲得もできず部数激減させたのと同じである。

 見え透いたテキトーな右旋回は相手にされない。

 

 「右」でさえ舐めたらいかんのに「左」は尚更である。

 共産党の田村委員長は「立憲が公明に吸収され政権批判票の行場が無くなった」と言ったが、なら何故その票が共産党に入らなかったのか。

 ただでさえロシアや中国に的外れな非難ばかりしておいて、さらにウクライナの件でも自民党政権と同じ姿勢では、政権批判票が共産党に入らなくて当たり前ではないか。



 しんぶん赤旗は商業紙の受け売りばかり。

 財政難だから、外国の支局を廃止して、その代わりに商業マスコミの受け売りでお茶濁し。ということは何の受け売りになるのか。国内報道では記者クラブからの垂れ流しで人権侵害ばかりしている報道モドキ「発表」の受け売り。国際報道ではアメリカとNATOが操る通信社から配信されたプロパガンダの受け売り。これだから、世界各地で同じ内容がマスメディアに踊る。

 これを検証する力も意欲も無い『赤旗』ということ。


 憲法についても消極的すぎる。

 自民党が言うことに、なぜ共産党は対抗しないのか。日本国憲法の戦力不保持は戦前の「天皇の軍隊」を否定してのことだから、戦力不保持を否定するなら同時に天皇も否定しないといけない。それを言わないのでは共産党の存在価値が著しく低下する。

 かつて共産党の指導者だった宮本顕治も「改憲したら自衛隊を廃止して人民軍にすべきだ」と説いた。いまこそ日本共産党は「改憲するなら一条から。天皇は廃止」と訴えれば支持が広がるはずだ。そういうことを言うと過激だと受け取られると思い込むのは、せいぜい「昭和時代」までだろう。


  このところ、野党は右も左も舐めすぎている。

 だから安易な態度になり、それで軽蔑されて振るわなくなるのだ。

 
 
 

 かつて自民党の中川雅治議員が、虐めを得意になって語った。

 それは2010年頃から自身のサイト内で掲載していた義家弘介衆議院議員・橋本聖子参議院議員(ともに自民)との対談記事「教育鼎談」というコンテンツ内にて、「中学時代は男子校で、クラスの悪ガキを中心に皆いつもふざけていて、小さくて可愛い同級生を全部脱がして、着ていた服を教室の窓から投げるようなことをよくやっていました」と書いていたことだった。

 これが、2015年8月になっていじめであるという批判を招いた。彼は毎日新聞の取材に対して「自分はやっていない。そういうことがあったのを見たということ。あっけらかんとしたもので、いじめとは思っていなかった」と弁解していた。



 このさい、あの菅野完氏が指摘していた。

 いじめは、この人達にとって普通のことだ。自民党は地方のボスの集まりだから。

 まったくそのとおりだ。それは東京のことであっても、古い土着の人達は地方のボスであり、それが祭りなどで地元の人として出てくると本性を発揮する。そういう人達が、例えば秋葉原の文化に対して文句を言っているし、世田谷が与太者の街だから「よたがや」と皮肉られてるのも同じことで、かつて「世田谷、耕せ」という歌(爆風スランプ)があったけれど、これは農地が宅地化してよく成金が住むようになる前のことを皮肉ったものだった。

 これは自分が六年くらい世田谷区に住んでいたので、地元の催し例えば無形文化財でもある伝統の「世田谷ボロ市」などで実際に接しているから解っている。


 菅野完という人は田舎の醜さを見事に指摘する。

 どうしてこのような指摘ができるのかは知らないが、彼は田舎について実に辛辣で適確なことを話す。そして最近では、高市首相が凄い田舎者であるから、それが良くて支持している人たちが多いことを指摘していた。

 こう彼は指摘する。田舎とは支配と被支配の人間関係しかなく、田舎に行けば行くほどそうなる。だから、石破首相や岸田首相は人を支配しようとしなかったので田舎者は頼りないと感じたが、高市首相はDVに観られるような田舎者の加虐をする側として支配しようとするから、支配されることに慣れきった田舎者たちは自分の首に鎖を付ける高市首相を頼もしいと感じるのだ。

 

 また、ファシストについても彼は指摘していた。

 これは戦争になった時が特にそうだが、そのさいファシストから少数派の者たちは指刺されて笑われ、罵声を浴びせられるが、なんと言われるのか。直ぐ思い浮かぶ「非国民」とか「アカ」とかではないし、「愛国心が無い」でもない。ではなんと言われるのか。

 「諦めろ」である。都合が悪いから迫害や弾圧をするのではなく、諦めさせるのが目的だ。これは田舎に行けば行くほど、そうなる。


 これは自分も体験している。

 親の事情で少年時代に東京から埼玉県に引っ越し、さらに山奥の方へ行ったことがあるけれど、そこでは地域でも学校でもまさに「諦めろ」の連続だった、地域の活動でも学校でも何か意欲を見せたり、良くないことを改善しようとすると、要するに「諦めろ」という趣旨のことを言われて、真面目にやっていることを嘲笑される。進学のための受験勉強でさえ、通っている学校では「諦めろ」であった。表向きは真面目に勉強しろと言うが、田舎の人が知らないことを勉強しようとしたり田舎の人が知らない職業に就きたいと言ったりすると頭から否定される。

 この調子が普段からなので、戦争についても同じことになるのだ。

 

 この田舎については他の人も、例えば宮台真司氏なども指摘していた。

 しかし菅野完氏のほうが実感のこもったことを言う。それについて自分は、田舎を目の当たりにして筆舌に尽くしがたい体験を少年時代にしているから、身を以て解かるのだ。

 
 
 
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