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​炬火 Die Fackel 

執筆者の写真井上靜

 過日、アメリカで株価の暴落が報じられた。

 そこでアマゾンドットコムもひどい下落という見出しだった。そこで株を買っておいた。少し様子を観察していたら回復したので売った。おかげで儲かった。

 さて、ホームページ(上の『ホームページ』の部分をクリック)に掲載してある拙書の紹介で、出版社に注文のリンクがある本でも、その出版社の人が言うには、注文のほとんどがアマゾンだそうで、大変な影響力である。




 出版社としては直接の注文が利益は大きい。 

 問屋の取り分が無いから当然だけど、ところが著者への払いは変わらない。だから正直いってアマゾンで買ってくださっても結構である。

 また、マーケットプレイスとかで出物や中古品で買ってもポイントが付くし、著者としても読んでもらえるだけで嬉しい。出物はサンプル用だったものが売られているので、新品だけど安く、場合によっては中古品より安いことがあるので、数に限りがあるけれどどんどん買って頂きたい。


 それというのも権力の迫害と闘っているからだ。 

 これは費用がもちろん要るからだけど、闘っている存在を知ってもらうことの影響力こそ重要だからである。それで、ただ読んでもらえるだけで、こちらとしては力にる。大衆の心に火が付くようになることが寛容だから。

 あと、弁護士などで力になってくれる人がいたらぜひお願いしたい。先日の法廷で、傍聴人として来た人と話したら、その人も「日本の弁護士は使えないやつばかり」と言っていた。圧倒的にそうだ。昔からのことであるる


 あと、金にならないという弁護士もいる。

 それ以上に権力と戦うほど勇敢じゃない弁護士が多い。弁護士の知り合いは多い方で、ときどき他人に紹介しているほどだが、警察の不正などを追及する件だと、なんだかんだ言って逃げ出すように断る人ばかりである。

 そうでない人がいたら、助力を。

 

 

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執筆者の写真井上靜

更新日:11月6日

 いまさら山口二郎という人の非常識を取り上げても仕方ないかもしれない。

 ただ、あまりにも失礼なことをしているし、こんな人が日本の政治について少しは発言力を所持しているから、すこし触れておきたい。

 なにより山口二郎がよく失礼なことを言う対象に共産党がある。


 その一つで、政党助成金のことがある。

 この政党助成金については、この場でも述べたことがある。政党助成金なんて制度はくだらないけれど、それを批判している政治家はいても、その所属する政党が受け取りを拒否するまでしているのは共産党だけである。

 そこで、ただ申請しないのではなく、申請しておいて、やはりこんな金は受け取れないと言うことを繰り返す方がアピールになるのではないか。

 また、政党助成金は予算が決まっていて、申請があったら議席数に応じて配分する仕組みなので、申請しないと他の政党の取り分が増えてしまう。だから申請しても受け取らないと国庫に戻るので、そうした方が良いのではないかという指摘がある。

 この話をしたら某共産党員は、その手も含めて党内で話し合うと言っていた。


 政党助成金を最もたくさん受け取っているのは、もちろん自民党。

 ところが、自民党は政党助成金を使わずに繰り越してばかりいる。そして派閥で集金して、裏金を作っている議員がいる。こういうことをしないための政党助成金であることが建前なのに。

 そのうえで、裏金のため選挙で公認されなかった候補者に、党の要人だからと政党助成金から大金を所属支部に交付していたことが問題になった。これは共産党の機関紙『赤旗』のスクープだった。

 こうしてみると、政党助成金の運用、それ以前に制度が悪いと誰でも思うだろう。



 ところが山口二郎は共産党も政党助成金を受け取るべきだと言った。

 もちろん、もっと活動資金が豊富なら、共産党は機関紙だけでなく選挙でも結果を出せたと考えられるが、そんなこと共産党も解っているだろう。

 それでも「渇しても盗泉の水を飲まず」という矜持や思い入れである。

 これに対して如何かと思っている人は多いだろうが、山口二郎はなんと言ったか。「やせ我慢」をするなと言ったのだ。

 まったく呆れてしまう。しかも、よく山口二郎は共産党の悪口を言うけれど選挙で応援したこともある。つまり良かれと思って失礼なことを言う人なのだ。この年齢でこれだから、周囲の人も同類項だろう。近づきたくない最たる人である。 

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執筆者の写真井上靜

更新日:11月6日

 『ゴジラ-1.0』が地上波放送された。

 これによって議論が起きていた。一作と同じように戦後すぐの時期に起きた事件という話なのに、核実験と文明批判が物語に無いということからの議論だった。

 いちおう、核実験が繰り返される場面と、その後から現れたゴジラが前と違っていることから、その影響はほのめかされてはいた。前に小笠原諸島の一つに現れた時は恐竜の生き残りのようだったのが、巨大化したうえ背びれが原子炉のように青光りしているからだ。

 しかし後半は、戦争について日本が人命軽視だったと反省しているけれど、核兵器には言及していない。

 



 これは前半と後半とでドラマが不整合ということだ。

 この物語の主人公は、最初に前のゴジラを目撃しているのだから、その時の姿と異なっているゴジラについて証言することができたはずだ。そして、対策を立案した学者が核実験の影響を指摘して、ゴジラを退治したものの核実験が続けばまた現れるかもしれないと言うなら、警鐘となる。続編に向けてのことだろうが、死んだゴジラの細胞が少しずつ復活しそうである場面もあるのだから

 なんで、こんな簡単なことを脚本に書かなかったのか。あるいは脚本にはあったけれど削除されたのか。


 この映画の脚本は、あまりにも伏線の張り方が単純だ。

 なので、ことごとく、最後の結末まで伏線の部分で完全に判ってしまう。そこで核実験の場面があるのだから、後半では一作と同じように「核実験が続けばゴジラはまた現れる」と言うセリフを、志村喬に代わって吉岡秀隆の学者が言うとばかり思っていたのに、それが無い。

 まったく不可解であった。


 あと音楽の使い方も疑問だった。

 ゴジラの場面で『モスラ対ゴジラ』の音楽が流用されていたが、そこでゴジラのモチーフが終わり続けてモスラのモチーフになるのに流れ続けるから、それは動機が違うぞと言いたくなる。しかも動機というだけでなく元は歌詞も付いているメロディーである。「♪マハラ-マハラ・モスラー」のメロディーがゴジラの映像に被さり違和感で、もちろんモスラは出ない。

 もっとも、これは気づかない人の方が多いのかもしれないが。


 『シン・ゴジラ』『ゴジラ-1.0』が好きではない。

 しかし、かつての『ゴジラ対ビオランテ』なんかよりは、遥かに面白かった。『ゴジラ対ビオランテ』は、公開当時、観た外国人から「日本映画は、ここまで堕ちたか」と言われるくらい出来が悪かった。

 ただし一部では『ゴジラ対ビオランテ』を凄く面白かったと言う人たちがいて、このため「傑作」と称賛する向きもある。これはゴジラの映画をエンターテインメント化したということで画期的だったからだ。

 つまり、誰にとっても、出来不出来より好みの方が優先される、ということである。

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