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  • 執筆者の写真井上靜

AIで芸術は可能か

 AIで絵を描くなど可能になってきた。

 人工知能で芸術をどこまで可能か、昔から議論があった。できたとしても面白味がない作品になるのでは、と危惧する人もいた。というより希望を説く人である。人間の手作りが無くならないという希望である。


 亡くなった松本零士は、コンピューターも画材の一つと言っていた。

 だから、描くのに便利になるけれど、何を描くかまで考えてはもらえない。最初は模倣だが、そこから創作へと乗り越えるのが大変だとのこと。



 ワープロは便利だが、何を書くかは考えてくれない。

 しかし、漢字の候補や脱字の指摘など便利である。同じように、楽譜の作成アプリもいずれ、平行五度だから禁則とか、転調なら間にこの音を入れるべき、和音の候補はこれら、などと表示されるのが当たり前になるはずだ。

 そうなると、特に勉強してなくてもスタートラインが同じになり、想像力で競争になる。純粋に才能だけで勝負である。


 これを知り合いの作曲家に言ったら猛反発。

 芸術は天賦の才能であり、これを伸ばすのは徒弟制度だと、彼は固く信じていたから。まあ、作曲で食えないから音楽教室で理論を教えている人としては、それに代わるアプリなど「後家殺し」と同じなのだろう。


 蛇足かもしれないが「後家殺し」とは脱穀機のこと。

 もともと脱穀は手作業で手間がかかった。これを後家といわれる未亡人が生活のためやっていた。それが早く大量に作業できる機械の実用化により収入が途絶えで食い扶持を奪われる。

 そういう意味だった。


 「ナポレオンないなくても他の誰ががやった」

 と言われるように、政治や軍事でなく学術でも、アインシュタインがいなくてもE=mc2は誰かが発見したし、芸術でさえモーツァルトがいなくても殆ど同じ曲を誰かが作ったであろうことは元ネタだと思われる曲がビバルディなどに見つけられることから判る。


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