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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年7月7日
  • 読了時間: 2分

 世良公則が選挙に立候補した。

 これについて、ロックバンド=ソウルフラワーユニオンの中川敬が、SNSで、それを報じる記事を引用し「笑笑」と嘲った。

 これに対して「圧倒的に格上」の歌手に向かって笑うものではないという反応があり、すると「圧倒的に格上」とは可笑しいとしたうえで、世良公則のことを「この男はネトウヨ活動家」にすぎないなどと言葉を返した。

 その後は「格」はどうでもいいことで、「レイシストベテラン歌手」なんて存在が恥ずかしいと指摘していた。



 世良公則は過去に一世風靡したような歌手ではあった。

 ただし、そのようなヒット曲を連発したのは七十年代のことである。もう半世紀が経とうとしている。かれこれ五十年近い過去のことで現在の「格」というのは変であるし、また世良公則は短い人気歌手の時期を過ぎた後は俳優として映画とテレビのドラマに出ていたけれど、そんな傑出した役者ということでもなかった。

 ということで、それ相当の芸能人だったのは過去のことであり、芸能人の推移とか浮き沈みとかは激しいから、その観点からすると本当に大昔のことである。まだ現役とは言っても地味というより細々とした活動しかしていない。それも、過去の芸風からすると現在すっかり老齢で衰弱している。


 それだから選挙に立候補するのだろう。

 これでは、ただでさえ今の同類芸能人に比して「格上」とはとうてい言えないのに、そのうえ衰退したあげくの立候補ということだから、そんな足掻きは客観的評価として恥ずかしいと言われてしまっても正当な評価であろう。

 しかも、中川敬が最も問題にしていたのは世良公則のレイシズム発言である。深く考えもせず最近の風潮に乗っかって排外主義的なアジテーションをしていた。それをベテランの芸能人がやっている。若気の至りどころか、老齢の域に入って見識が深まるのではなく、目立ちたがり屋の若造みたいにしている、というのが最近の世良公則である。

 

 こういう年寄りにはなりたくないものだ。

 あれは権勢に媚びて弱いもの虐めというやつであり、人間として最も恥ずかしいことだ。それが人生を積み重ねてもわからない。

 無駄に歳だけ取った男が、自我と前立腺ばかり肥大している典型である。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年7月6日
  • 読了時間: 2分

 By whom

 この「何によって」を知ったのは、中学の時にやった有名校の入試過去問題だった。あのときまだ学校で習ってなかったうえ疑問文と受動態というのが初心者にはややこしかった。

 これが入試で出題された学校という意味で問題文の下に(ラサール)と記載されていた。変わった学校名があるものだと思った。これが最初だった。


 ラサール石井さんは卒業生だそうだ。

 それで、そんな猛烈受験校を出たという意味で芸名にしているのは周知のとおり。それだからなのか、最近の大学入試の問題文はどうなっているかという話題を、ラサール石井さんは旧Twitterの旧アカウントで取り上げていた。

 そこで、自分も大学入試の問題集を大量に書店で買い込んでやっているという話をしたら、ラサール石井さんは「がんばってください」と一応エールを送ってくれた。


 大学入試の問題集などは普通の書店に置いてない。

 高校入試と違って、大学入試の問題集などは大型書店でないと扱ってないのだ。それで大型書店に行き「爆買い」した。

 その大型書店=紀伊国屋書店は、大量に買うと持ち帰るのが重いから送料を書店負担で送ってくれるサービスをしている。それで「大人買い」したものを送ってもらい、全部やった。

 

 その時に気づいたことがある。

 よく受験勉強というと嫌なことだと感じる人がいるけれど、親に邪魔されないで受験勉強できるのが、こんなに楽しいとは思わなかった。純粋に勉強が嫌いな人もいるだろうけど、結構なほど多くは、親に邪魔されるから嫌になっているものだ。自分の子供を見下したり蔑んだりしている親は、そんな子供が受験勉強も含めて何か一生懸命に何かしていると、憎むのだ。

 

  

 ラサール石井さんは大学に受かったら通うつもりだと言っていた。

 それは、芸能活動をしながらなので、通うことまで計画していない、ということで、だけれど受験勉強には入学する目的があるのだから、受かったら通うのは当然のこと、ということなのだろう。

 また、このたび彼は思うことあって選挙に立候補したが、それもまずは社会に訴えたいというのがあるのだろうけれど、当選したら議員として活動するつもりみたいだ。

 そちらの方が入試より緊急の課題ということなのだろう。


 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年7月5日
  • 読了時間: 2分

 筆記試験だけの入試を維持すべきという人がいる。

 これは公平だから、ということだ。もちろん筆記試験が出来るかは家庭環境などの影響があるので、偏差値の高い大学ほど親が富裕であり、これは傾向どころか正比例していると言って良いほどだから、これでは公平じゃないと言う人もいる。

 しかし筆記試験だけなら、誰でも頑張れは出来るのも現実だ。


 これは米山隆一議員も言っていた。

 あの人は、自分の通った高校が猛烈受験高であるのを売りにする灘高校であるから自分は違うけれど、そうでなく片田舎の学校に通ってひたすら受験勉強することで東京大学に入ることも不可能ではないから、そこが筆記試験だけの入試の良いところだと言っていた。

 実際に、彼と同い年の岡口基一もと判事は、地方それも結構な田舎の偏差値50を切る高校から東京大学に入ったので、大学より高校を自慢していた。高校それ自体ではなく、そんな高校から一流大学の頂点に入ったという自慢である。



 これは、少ないけれど可能性があるだけマシということだ。

 そのおかげで、高校卒業など大学入学の資格があれば誰でも、大学の入試を受けることができる。事情あって遅れて大学に入ろうという人も、筆記試験だけのほうが良い。

 これが、高校の推薦でないと大学に入れないとなれば、もっと不公平である。筆記試験が出来るようになるのも家庭が富裕な人ほど有利とはいえ、それはあくまで有利ということであって、推薦入試のように枠からはみ出したら可能性が無くなってしまうわけではない。

 

 もともと、推薦や面接は、意欲ある人や優秀な人を、排除するものだった。

 さらに内申書や調査書も加わり、思想信条を学問に介在させるためのもので、こうして入試が政治的に決められ、そこから教師が生徒・児童に対して恐喝が行われ、暴力やセクハラが横行し、そこから逃れられるから、筆記試験だけの入試は貴重だと昔から言われてきた。

 しかも最近では、金ばかりかかる民間の模試の試験を入試の選考に入れようという異常さである。

 そうしてみると、筆記試験だけというのは公正という見地から実に貴重である。

  

 
 
 
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