top of page

​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年5月3日
  • 読了時間: 3分

 幸運は努力する者にだけ訪れる。

 そう言う人が昔からいるけれど、それなら「運」は関係ないことになる。努力が総てなのか。しかし運の良し悪しは結果に大きく影響しているのも否定できない。

 また、宝くじのように努力は関係なく運だけのものだって存在する。


 宝くじに当たるのも買うなどして先ず手に入れることが前提だ。

 つまり宝くじの幸運は努力ではないが、持っていないのに当たって金が入ることはなく、では、この入手と努力は同じことかという問題がある。宝くじの購入で、枚数が多ければ確率が高まるから共同で購入する人たちもいる。この場合、配分などをきちんと決めることが重要と言われるが、どうするにせよ、これは工夫であって努力とは違う。


 ただ、運でも努力でも工夫でもリスクが伴うことは同じだ。

 それは結果が出なかった場合、宝くじの購入では散財になるし、色々な努力や工夫でも散財につながるし、特に努力の場合は他のことをする時間を失ったり頑張りすぎて身体に負担となったりで健康に害を及ぼせば生命にも関わる。

 このリスクを、特に努力の場合は考慮しない人がいる。自分のことなら自己責任でいいが、問題なのは他人に努力の大切さを説く人で、努力のリスクを一切考慮しない。



 最悪なのが学校の教師である。

 よく努力する意義を説くものの、報われない場合の被害を考慮しないで生徒児童に説教する。また、学校の教師が言う努力なんて、どんなに報われても所詮は日本の学歴社会など、冷静に見れば実に狭い範囲でのことだ。

 そんなことのために、他のことをする時間を奪われたり健康を害したりするなんて愚の骨頂である。


 だから、ここで前に取り上げた話につながる。

 真面目に勉強することで定評のあった同級生は、こっちが不本意とはいえ大学に入って勉強それ以上に学費稼ぎのバイトで悪戦苦闘しているのに対し、受験ノイローゼになってしまい大学ではなく精神科や心療内科に通っている。

 また、高校生の男女が人目を憚らずいちゃついているのを見ても、自分の若い時を思い出すと、とうてい「最近の若い者は」なんて言えないが、しかし青春時代に受験勉強ばっかり熱心だと、新潟県知事を辞めるはめになった人のようになって、それで国会議員に転じたうえ結婚もしたけれど、あの時の話をまだ蒸し返されている。

 学問だけでなくスポーツでも、たいへんな努力をしてスポーツ推薦で大学に入り怪我で挫折し、頭空っぽで、卒業したらブラック企業にしか入れず、悪徳セールスで押し売りをして、消費者センターに苦情ばかりで、その言い訳とは「怪我さえしなければ日の丸を背負って…」という無様さ。


 それくらい、努力にはリスクが伴い、怠けていた方がマシなことがあるのだ。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年4月24日
  • 読了時間: 2分

 かなりの高齢と見える男性に話しかけられた。

 それは自宅近くの路上でのこと。そこに車椅子や介護用品の貸し出しをする会社の事務所ができたから、これについての話題を、その人は誰でもいいから通りかかった人と語らいたかったようだ。

 この人は歩き回ることはできるが、片眼がほとんど見えないだろうというほど黒目が白濁していた。その人と他愛ない世間話という程度のことだった。しかし楽しかった。雰囲気が陽気な人で、また温和だったからだ。



 こういう人と違い、険悪な老人から不愉快な目に遭ったことが、先日あった。

 それは公共の場で座っていたところ、正職員ではないシルバー人材で手伝いに来ている老人が、突然に老人特有のブチキレかたをして言いがかりをつけてきたことだった。なんと、その爺さんが鼻の下を伸ばしている婆さんに、席を譲れと言うのだ。席ならまだ空いているのに、何を言っているかと不可解だった。

 このようなシルバー人材が、仕事で使えないうえ無茶苦茶な言動をするため、そんな老人は雇わないでくれという苦情は全国でよく聞く話である。


 こうしてみると、老人であるかは関係ない。

 あくまで人柄の問題である。ただ、高齢になると判断力の低下により上辺を取り繕うことができなくなる。それで地の性格がもろに出るのだろう。

 それで、今年に入ってから両極端な高齢者と接し、楽しい人もいれば、嫌な人もいる、ということになったのだろう。正直に言うと、楽しかった人は先が短いのが一目瞭然の老人だけどなるべく長生きして欲しいし、まだまだ生きられそうでも嫌な人の老人には今すぐにでも死んでほしい、というように本気で思った。

 それくらい人柄が違うのである。この差はどこに原因があるのだろうか。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年4月22日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年4月22日

 コロナウイルスワクチン被害の賠償を請求する集団訴訟が提起された。

 新しい病原体による病気なのだから、その医薬品も拙速になるのが当たり前である。これでは被害が出ても当然のことだ。そして危険も指摘されていた。費用の莫大な無駄遣いは、深刻というべき額である。





 あと、外国の製薬会社という問題もあり、日本の製薬会社は薬害を何度も起こしているが、もともとは外国の製薬会社から発していることが何度もある。

 それについて、かつて薬害によるスモン病が大問題になったさい、その被害者の一人である女子大生の親と軍隊で先輩の関係だった例のルパング島の小野田という人が、その女子大生に会って言ったそうだ。彼は戦地で米軍が残した物資を利用することならあったが、医薬品は信用できないから使わなかったとのこと。


 そもそも医師は何も解らない。

 よくある風邪で葛根湯を出すのも、医師は箱に書いてある能書きすら読んでいなかったりして、実にいい加減である。こんな調子が元々なのに、新薬なら大丈夫という滑稽なことがありえるものか。

 それに、医師が大丈夫とか安全とか言うと、危険である。その構造があるからで、単に不信感ということではない。


 心配だからこそ安全だと医師は言う。

 なぜなら、お上のお墨付きがあるから安全ということだから。これには二種類あり、お上を妄信している単純な医師であるか、お上を信じたと言えば自分が責任を追及されないと計算している医師である

 だから、医師が大丈夫とか安全とかいうのは自分の立場についてのことで、患者の命のことではない。このような処世術を駆使しないと医師は務まらないだろう。


 こういうことは過去の薬害で散々あったこと。

 なんで、せっかく多くの犠牲を払って得た教訓を生かさないのか。忘れているどころか最初から知らない人が少なくない。これは深刻である。


 
 
 
  • twitter

©2020 by 井上靜。Wix.com で作成されました。

bottom of page