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​炬火 Die Fackel 

 ジャニーズの件は芸能と性暴力の問題である。

 もちろん、議員などが関係していたら政治的な問題にはなるが、せいぜい権勢に媚びる芸能人の発言が話題に登ったくらいのことだ。

 かつてシティポップスの双璧といえば二人の「ヤマタツ」で、「顔が良いヤマタツ」とは山本達彦のことで、「顔の悪いヤマタツ」とは山下達郎のことだが、悪いほうのヤマタツが顔ではなく商売を気にして醜い言質があったため評判を悪くした。その程度のことである。

実は有力政治家に同性愛で未成年者を好む人がいて、その圧力により有耶無耶にされてきた、という噂なら既にあったものの、これが本当であるという具体的な事実が後から判明したなら話は別だが、今は未だそんなことになっていない。


 ところがネトウヨといわれる人たちが擁護している。

 まったく政治とは関係がないが、それでも強者に擦り寄って弱者を叩く右派の性癖が影響しているのだろう。

 また、ネット上の右翼にとっての判断基準が「左の逆張り」でしかなく、「なにやらジャニーズや山下達郎が左っぽい感じの連中から叩かれているから、おそらくジャニーズや山下は正しいに違いない」と言っているだけだったりする。


 この主体性のない左翼依存症はネトウヨだけではない。

 もっと前から、欧州のアカデミズムに根強く、その最たるはマルクス批判でしか政治経済を語れず実は拠り所にしているという流派である。

 これを日本の西洋かぶれ右派が真似したのだ。京大で大島渚の師匠のちの防衛大学校長-猪木正道とか、電通大でドイツ文学ニーチェ専攻の西尾幹二とか。さすがに猪木正道は、林健太郎と同様に歴史修正主義は厳しく批判したから、やはり京大と東大の矜持があったのだろう。


♪猪木ボンバイエ~防衛大学校ホームページより


 しかし西尾幹二は、日本人の中でも特にアメリカ人から「イエローモンキー」と侮辱される顔の特徴が強いけれど、それでいて大学で文学をかじったからと脱亜入欧した錯覚で西洋の目線から民族差別発言して見せるので、滑稽どころか無様であるが、それでしあわせなのだろう。これは別に高須クリニックで顔を変てもらえとか言う意味ではない。ニーチェ先生のようにエクセホモこの人を見よ、という意味である。


 そういう違いはあっても、依存症はおなじである。

 つまりアカデミズムもネトウヨと変わらない人たちが、マスコミと同様に蟠踞している場所柄なのだ。

 中北浩爾(中央大学法学部教授)が、学者なんて所詮この程度の証明をした。

 Yahoo!の記事だと「共産党が変われば日本の政治は変わる/中北浩爾氏(中央大学法学部教授)」なるタイトル。

 これだけで頭がどうかしたとしかいいようがない。そんなことで変わるわけないし、変わってたまるかと思う人が圧倒的だろう。一野党のことなんかでそんな影響があったら異常だし怖い。それも一学者風情の意見で。自信過剰にしても妄想がひどすぎる。


 また、悪い冗談の水準の話までしている。

 イタリア共産党は共産党であることをやめたのだから、日本共産党も共産党をやめるべきだそうで、イタリア人がスパゲッティ食うのやめたから、日本人もソバ食うのやめるべき、というも同然の滅茶苦茶。

 意見は自由だが、こうも知性の程度が低いと気持ち悪い。


 他にも前提の事実から間違っているし、分析も間違っている。

 大学教授なんて所詮この程度だが、それより、そんなこと言うなら自分が入党すればいい。それを外部から上から目線なんて傲慢だ。



 維新は全マスコミから嘘により持ち上げられ、共産党は全マスコミから嘘により扱き下ろされる。

 そこへ自称リベラルが便乗してYouTubeやYahoo!で嘘の上塗りで共産党を攻撃するが、リベラルで反共だとしても嘘はいけない。その大体が本当はリベラルじゃなく、そう偽装して右派を応援しているのだろう。

 その一人ということだ。


 ずっと前に他の大学教授がテレビでいい加減なことを言ったさいのこと。

 あれは筑波大学の統一協会に近い人だったが、この人の前職はキャリア官僚で、東大法学部卒の偏差値秀才丸出しで知られていた。

 それが野党について「~を云々しているが」と批判したら、スタジオの客席にいた野党支持の労組関係者からヤジが飛んで「云々なんてやめろよ、学者なんだから」とツッコミ入れられて焦っていた。当たり前である。そんな話をするなら、事実を明確にして説くものだからだ。

 これと同じ水準で語る「学者」が昔から多すぎる。メディアに出たがる人の特徴だ。中北という人も、マスメディアにのった風説に基づいて語っている「学者」というだけでも同類項である。そんなの大勢いるが。

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2023年3月23日
  • 読了時間: 2分

 AIで絵を描くなど可能になってきた。

 人工知能で芸術をどこまで可能か、昔から議論があった。できたとしても面白味がない作品になるのでは、と危惧する人もいた。というより希望を説く人である。人間の手作りが無くならないという希望である。


 亡くなった松本零士は、コンピューターも画材の一つと言っていた。

 だから、描くのに便利になるけれど、何を描くかまで考えてはもらえない。最初は模倣だが、そこから創作へと乗り越えるのが大変だとのこと。



 ワープロは便利だが、何を書くかは考えてくれない。

 しかし、漢字の候補や脱字の指摘など便利である。同じように、楽譜の作成アプリもいずれ、平行五度だから禁則とか、転調なら間にこの音を入れるべき、和音の候補はこれら、などと表示されるのが当たり前になるはずだ。

 そうなると、特に勉強してなくてもスタートラインが同じになり、想像力で競争になる。純粋に才能だけで勝負である。


 これを知り合いの作曲家に言ったら猛反発。

 芸術は天賦の才能であり、これを伸ばすのは徒弟制度だと、彼は固く信じていたから。まあ、作曲で食えないから音楽教室で理論を教えている人としては、それに代わるアプリなど「後家殺し」と同じなのだろう。


 蛇足かもしれないが「後家殺し」とは脱穀機のこと。

 もともと脱穀は手作業で手間がかかった。これを後家といわれる未亡人が生活のためやっていた。それが早く大量に作業できる機械の実用化により収入が途絶えで食い扶持を奪われる。

 そういう意味だった。


 「ナポレオンないなくても他の誰ががやった」

 と言われるように、政治や軍事でなく学術でも、アインシュタインがいなくてもE=mc2は誰かが発見したし、芸術でさえモーツァルトがいなくても殆ど同じ曲を誰かが作ったであろうことは元ネタだと思われる曲がビバルディなどに見つけられることから判る。


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