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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年11月24日
  • 読了時間: 3分

 昨日の話題―90年代に書かれた社会科学系の本を何冊も再び読みなおしたが、これらは読んでも無駄だったと思ってしまう―ということについてだが、ではなぜ当時の社会科学系の本は的外れなことばかり書いてあるものなのか。


 あの当時に書かれた本では、「ポスト冷戦」と銘打って、この先の世界はこう変わるという予測をすることが流行していたが、当たっている本は全く無いと言い切ってもよい。

 ただ予想が外れているだけではない。政治史や思想史の観点から冷静に分析している人でさえ、なにもかも的外れである。そんな人たちは、例えばカントとかスミスとかウエーバーとかマルクスとか、とにかく社会科学分野での偉人たちを持ち出して、その通りになっていないのは彼らの分析に欠陥があったからだとし、当時の情勢からすると彼らに気づかないことがあったのだと指摘して得意になる。

 それでいて自分が的外れであることに気づかないのが痛々しい。


 こんなのばかりなのが90年代の本である。

 この当時は世界が大きく流動していると騒がれ、国際情勢などについて語るのがトレンドだったから、粗製乱造は仕方ない。しかし、この当時はマスメディアが今程あからさまな嘘ばかり垂れ流していたのではなかったのだ。だから、今から考えるとあんなのは単なるメディアの嘘だと簡単に解ることも、当時はなかなか気づかない。それどころか、メディアの噓という発想も持ち合わせない人が多かった。そこから「冷戦終結」の後に「民族紛争」が頻発し、その構造とは何か、などと虚しく「分析」して得意がる人たちが出たのだ。


 ところがSF小説では、社会一般で信じられていることが虚構だというのは普通である。

そして、まさかそんなことはSF小説の世界だと言われていたことこそ現実である。それをあくまでSFに留めておきたい人は、自分がマスメディアを通じて嘘を信じ込まされているとは思いたくないのだろう。

 しかし、50年代のSF小説の名作が今でも古びてないのに対し、90年代の社会科学系の本は古くなったどころか冷静に読めば当時でさえデタラメだと解るものばかりである。そして、こうした本を書いていた人たちは過去の知識人たちについて「彼らの当時は気づかなかったが今みると間違っているのだ」と言いながら、その「今」という時点でも気付いているべきだったマスメディアの嘘を鵜呑みにして語っている。そんな滑稽で無様なことになっているのだ。



 「失われた10年」と、よく90年代について言う。

 これは経済的な見地から、やるべきことをしなかったツケが後に回って来たから言われることだが、それだけでなく、マスメディアの噓を検証せずに来たことも同様に「失われた10年」である。そのツケが今になって回ってきている。だから、マスメディアとくに大手マスコミについて、いまさらしても遅い批判をしている人たちがいるのだ。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年11月6日
  • 読了時間: 2分

更新日:2021年11月7日

 「自民・維新・御用マスコミの『立憲党の敗北は野党共闘のせい』に騙されるな。」

数字から明らかなとおり、成果が出ているうえ当選できない場合でも僅差だった。野党共闘の「見直し論」は野党を壊滅させるための謀略である。

 この指摘は、野党の議員と御用でないメディアから出ていることだ。


 この御用マスコミの一員である高橋浩佑の発言を前に指摘していた。

 もともと、この人は選挙以外の分野でも基本的な事実に反する前提でデタラメを繰り返しているが、これらはその態度からして商売としてのことだから「いわゆる『ヤクザな言論』だ」と指摘した。

 すると高橋浩佑はTwitterで「ヤクザ言論」と言われたと内容を違うように変えたうえで「名誉毀損」だと、ほざいた。

 

 しかし、読んだ人から指摘のリプライがあった。

 ほんとうは「ヤクザな言動」であり「ヤクザ言論」ではない。「な」一文字だけでも意味が違う。それに、カッコ付の部分をカッコ付で引用しながら字を抜いて意味を変えてしまっているから悪質である。



 そのとおりで、最近の例でいうとあの「Dappi」という野党を誹謗するために虚偽のデマを垂れ流し続けてきたTwitterのアカウントも、そうだ。これは会社がやっていたと判明し、この会社は自民党と親密な関わりがあった。暴力団が経営しているのではないらしいからヤクザではないが、あんなタチの悪さではヤクザ「な」商売をしていることになる。

 こういうことだが、これを高橋浩佑は解らないか、あるいは故意の曲解をしたうえで、ヤクザ者のように言われたから名誉毀損だと叫んだのだ。


 このように、政権批判して見せながら肝心なところで工作している奴はいっぱいいるのだ。

 もちろん、報道は斜陽産業だから優秀な人が乏しい。理解する能力に欠けている可能性もある。

 どちらにしても、こんなのに騙されてはいけないということだ。テレビに出ていることで何となくの親近感を持ってしまう人もいるが、それでは自公政権に反対するつもりで維新に投票してしまう大阪人らと同じである。


 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年10月31日
  • 読了時間: 2分

 朝日新聞の内容が劣悪すぎて料金に見合わないからデジタルも解約したという雑誌記者がいた。

 これは何年も前から続いていたことの結果で、記者が真面目にやっているのに社長が政治家の圧力に屈したり慣れ合ったりしたりで、左遷された記者までいたほどだから、こうなることは予見できた。


 それよりさらに前から現役記者も告白していた。

 例えば、外国の新聞社で、勤務している記者が他の雑誌などから記事や論評を書く依頼を受けることがあると、それだけ活躍している記者がいるということだから新聞社としては誇りだけれど、日本では組織に忠誠でないという低い評価をされてしまいかねない。

 そういう事情の違いがあるうえ、記者としての仕事が出来ない人が管理職になり僻み根性で仕事の妨害をすることがある。普通は、自分が記者としての仕事をできなければ、その代わり管理職になって他の記者が仕事しやすくすることで会社組織に貢献し、これは才能の種類が違うのだから仕方ないということで納得できるはずだ。どんな種類の会社と業務でも、みんな同じである。

 ところがそうではなく、自分のできなかった仕事をしている人に嫉妬して、管理職になったことを利用して仕事の妨害をする。こういうことが、朝日新聞にあったということだ。


 この話に、当時は「まあ、そんな人どんな会社にもいるな」と受け止められていた。

 それだけでは、どうも済まなかったらしい。その挙句の果てが、今の体たらくと惨状というわけである。

 ただ、そんな話ばかりしていては希望がないと考える人もいる。


 あのダニエル-キースは『アルジャーノンに花束を』の原稿を複数の編集者から、主人公が去ってゆく切ないハッピーエンドではなく、主人公が結婚してのハッピーエンドに変更するよう求められて断ったそうだ。それは物語では駄目だが、批評では時々の情勢から結論が変わることがあっても当然である。それで要請に応じたり改変も容認したりする。これでどうだったのかは結果論にすぎない。



 
 
 
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