top of page

​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年1月5日
  • 読了時間: 4分

更新日:2025年9月14日

 去年は、検察の体質に改めて批判が強く巻き起っていた。

 地位に絡んで不正をやらかした自民党の政治家たちを不起訴にする。冤罪で証拠の捏造があったことを裁判所も認めざるをえず無罪判決となって警察すら謝罪したのに検察だけは居直った。検察組織の頂点にいる男が部下の女性検察官に性的暴行を働き組織的に隠蔽したうえ裁判で最初は謝罪していたのに一転して無罪を主張し始める。

 これだから当たり前だ。


 もともと検察の体質は昔から酷すぎると言われていた。

 その話題を取り上げたさい、かつて受講していた元検察官の弁護士で法学部教授の白井という男に言及していた。この男が言うには、冤罪は存在せず、検察官も裁判官も無謬で、司法試験に受かった者だけが頭がよく、低学歴でも高学歴の理系でも低能だから、市民の良識を司法に取り入れる陪審員制度に反対で、多様な人生経験に基づいた見識など有害無益である。それより勉強になるのは自分が挙げる古典文学の名作を読むことだと言って、世間知らずの文学少女のお嬢様も同然のことを五十面下げたオッサンが大学の授業で言う。

 そういう事実の数々。これに対して司法に関心がある人たちは「やはり元検察官だからだ」「検察組織の体質だ」「徳島ラジオ商殺し事件と同じだ」と言った。


 この元検察官はトラック運転手の経験があるそうだ。

 それは、彼が高校を卒業してから暫くの間のことだった。若かったので無謀な運転をして年配の警官に咎められ、反発すると「しかし刑法では」と窘めて言われた。

 これで関心を持ち、運転手を辞めて受験勉強して大学に入り、四年生の時に司法試験に合格して、卒業したら検察に就職したそうだ。

 そのさい若さゆえの無謀さについて「裁かれたい」という心情があったことを吐露していて、それがキリスト教式の原罪というよりマゾヒズムに近くて学生たちは気色悪く感じたものだった。


 かつて『トラック野郎』という正月映画の人気シリーズがあった。

 主人公のトラックが警察に追跡されて振りきるのが毎回の見せ場になっていて、そのさいパトカーや白バイが横転するなどの描写はコケにした感じなので、怒った警察がロケ地で監視していた。主演の菅原文太は大型免許を持ってないので、撮影のさい公道でない場所を走っていたが、すこしでも公道に入ったら逮捕しようとしていたらしい。

 この映画の発案者は、主人公の相棒役の愛川欽也だった。役は元警官で、運転手たちの喧嘩に巻き込まれてしまい、警察署で小松方正ふんする私服警官から「元警官なのに」と言われる。

 これに菅原文太は反発する。

 「そんなこと関係ないだろう。とっくに警察から、きれいさっぱり足を洗ったんだ」

 「なんだ、その言い方は。警察は暴力団じゃない」

 「桜の代紋掲げた全国最大の組織じゃろうが」

 このやり取りに観客は大笑いするが、別の場面で愛川欽也が言う。「警察官だった時は、なんで法規を遵守しないのかと怒って取り締まっていたが、運転手になって判った。守っていたら間に合わない。生活できないんだ」

 そして、こき使われて過労のため事故を起こしてしまった運転手とか、陰険な取り締まりにより免停になり工事現場で臨時雇いで働かざるを得なくなった運転手とか、下層労働の実態が描かれている。

 実際に、鉄道と違い未組織の労働者が酷使され、また鉄道で労働組合が争議をしていると、そのスト破りに未組織のトラック運転手たちが動員されてきた。



 こうした庶民の悲哀を理解できない元検察官の弁護士の法学部教授。

 そして、ひたすらの上昇志向。在野となっても権力を虚偽で擁護し、新しい学会を作り珍奇な学説で天才を自称する。自画自賛してもデタラメには変わりない。

 ただ、そうすることで自分が何も解らない不幸な人間であることを忘れようとして忘れられず、仕事に没頭することで気を紛らわせていたようだ。このような可哀想な人は、同情ではなく軽蔑しなければならない。

 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年1月4日
  • 読了時間: 2分

 性暴力の被害に遭った女性が弁護士を探しても見つからない。

 そう言って困った現実を嘆いていたが、弁護士が見つからないのは性暴力だけではない。弁護士は民事や商事の金儲けになる案件でないと、まず相手にしない。

 これは『七人の侍』と同じことである。


 『七人の侍』で農民が人足に言われる。

 「物好きな侍は見つかったか」と。これは揶揄い半分、同情半分であった。侍は、手柄を立てて出世するためでないと闘わない。

 また、相談に乗るふりをして飯を食い逃げする侍までいた。

 これと同じ弁護士もいて、相談料を受け取っておいて何の助言もせずはぐらかしたり、引き受けるふりをして着手金を受け取って放置したり。



 女性の弁護士だから女性の味方はしてくれない。

 前にも話題に取り上げたが、性暴力の被害に遭ってPTSDになった女性のことを「勝手になった」とか「なるのは勝手」とか言った女性の弁護士がいた。これは何の相談かと思ったらそんな話かということで、そんな金にならない事件なんか引き受けない、と言うだけでは気が済まなかったようだ。

 また、枕営業の失敗だったのだろうと侮辱するのも、だいたい女性の弁護士である。性犯罪の被害を訴える女性に嫌がらせした女性の国会議員や女性のイラストレーターと同じ体質の女性は弁護士にもいて、それが右翼的なら解りやすいけれど、表向きは人権派を装っていたりするから期待して相談した人のショックは大きい。


 しょせん、そんなものだと言った人がいる。

 この人は刑事被告人として裁判の経験がある。そのさい思い知ったけれど、しかし考えてみれば、金にならない仕事を頑張る人は、そういない。むしろ、同情されて力になってもらおうという方が、世の中を甘く見ている。

 それも、そうだ。これを解っていて、覚悟して物事に当たれば、すくなくとも正気を保っていられる。 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年1月2日
  • 読了時間: 2分

 性暴力について調べていた人が弁護士を批判していた。

 被害者の相談や依頼なのに、加害者に寄り添う弁護士・法律事務所が多いと言う。寄り添うとは、どういう意味なのか。これは、とにかく示談にしようとするから。

 それは微妙に違うだろう。


 もちろん加害者にとって示談が良いことがある。

 なにより性暴力の事実が動かし難い場合。また、そうでなくても世間体が悪いのを気にする場合。それよりは金で解決したほうがマシだということになる。それで示談にしたがる。

 だから、被害者の相談を受けていながら示談にしたがるというのは裏切りであり、加害者に寄り添うことだという批判である。




 ただ、示談の方が確実に金になる。

 これは被害者にとっては不本意である。弁償して金で解決できるなら結構だけど、人間としての尊厳を踏みにじられて金で解決というのは簡単すぎて納得できない。

 だから、着手金を払い、勝ったら成功報酬というのは当たり前であるが、それを最初から避けて確実に金になる示談というのは、あくまで弁護士の営業・法律事務所の経営の都合である。


 それなら、確実に儲けるのは民事や商事でやればいい。

 なのに、なぜか性暴力など尊厳に関わる事件で確実に儲かるようにしたがる。商売繫盛の法律事務所はだいたい、争うようでいて和解で落とすと明言している。

 これは性暴力だけではない。労働事件でも、医療事件でも、金より尊厳の問題だと依頼人が訴えても、それでは不確実だと弁護士は言うし、もしも尊厳のために闘うという弁護士がいたら、事務所の上司の弁護士に怒られてしまう。


 個人加盟の労働組合も、企業から和解金を取るのが基本方式である。

 その顧問の弁護士も、この方針に合わせている。書類が山積みになっている事務所で大忙しではなく、豪華なオフィスを構えて成功者になったと酔いしれている。そして、人権を金儲けに利用していると非難される。

 実際に被害者は出汁に利用されただけ。

 

 こういうことだから、被害者の相談を受けておいて加害者に寄り添うというのとは微妙に違うのだ。

 そして、もともと、いかにも金儲け主義という人と所だけでなく、表向きは人権派を装っていたりする人と所もある。だから厄介なのだ。

 
 
 
  • twitter

©2020 by 井上靜。Wix.com で作成されました。

bottom of page