元検察官で元トラック運転手の弁護士
- 井上靜

- 1月5日
- 読了時間: 4分
更新日:9月14日
去年は、検察の体質に改めて批判が強く巻き起っていた。
地位に絡んで不正をやらかした自民党の政治家たちを不起訴にする。冤罪で証拠の捏造があったことを裁判所も認めざるをえず無罪判決となって警察すら謝罪したのに検察だけは居直った。検察組織の頂点にいる男が部下の女性検察官に性的暴行を働き組織的に隠蔽したうえ裁判で最初は謝罪していたのに一転して無罪を主張し始める。
これだから当たり前だ。
もともと検察の体質は昔から酷すぎると言われていた。
その話題を取り上げたさい、かつて受講していた元検察官の弁護士で法学部教授の白井という男に言及していた。この男が言うには、冤罪は存在せず、検察官も裁判官も無謬で、司法試験に受かった者だけが頭がよく、低学歴でも高学歴の理系でも低能だから、市民の良識を司法に取り入れる陪審員制度に反対で、多様な人生経験に基づいた見識など有害無益である。それより勉強になるのは自分が挙げる古典文学の名作を読むことだと言って、世間知らずの文学少女のお嬢様も同然のことを五十面下げたオッサンが大学の授業で言う。
そういう事実の数々。これに対して司法に関心がある人たちは「やはり元検察官だからだ」「検察組織の体質だ」「徳島ラジオ商殺し事件と同じだ」と言った。
この元検察官はトラック運転手の経験があるそうだ。
それは、彼が高校を卒業してから暫くの間のことだった。若かったので無謀な運転をして年配の警官に咎められ、反発すると「しかし刑法では」と窘めて言われた。
これで関心を持ち、運転手を辞めて受験勉強して大学に入り、四年生の時に司法試験に合格して、卒業したら検察に就職したそうだ。
そのさい若さゆえの無謀さについて「裁かれたい」という心情があったことを吐露していて、それがキリスト教式の原罪というよりマゾヒズムに近くて学生たちは気色悪く感じたものだった。
かつて『トラック野郎』という正月映画の人気シリーズがあった。
主人公のトラックが警察に追跡されて振りきるのが毎回の見せ場になっていて、そのさいパトカーや白バイが横転するなどの描写はコケにした感じなので、怒った警察がロケ地で監視していた。主演の菅原文太は大型免許を持ってないので、撮影のさい公道でない場所を走っていたが、すこしでも公道に入ったら逮捕しようとしていたらしい。
この映画の発案者は、主人公の相棒役の愛川欽也だった。役は元警官で、運転手たちの喧嘩に巻き込まれてしまい、警察署で小松方正ふんする私服警官から「元警官なのに」と言われる。
これに菅原文太は反発する。
「そんなこと関係ないだろう。とっくに警察から、きれいさっぱり足を洗ったんだ」
「なんだ、その言い方は。警察は暴力団じゃない」
「桜の代紋掲げた全国最大の組織じゃろうが」
このやり取りに観客は大笑いするが、別の場面で愛川欽也が言う。「警察官だった時は、なんで法規を遵守しないのかと怒って取り締まっていたが、運転手になって判った。守っていたら間に合わない。生活できないんだ」
そして、こき使われて過労のため事故を起こしてしまった運転手とか、陰険な取り締まりにより免停になり工事現場で臨時雇いで働かざるを得なくなった運転手とか、下層労働の実態が描かれている。
実際に、鉄道と違い未組織の労働者が酷使され、また鉄道で労働組合が争議をしていると、そのスト破りに未組織のトラック運転手たちが動員されてきた。

こうした庶民の悲哀を理解できない元検察官の弁護士の法学部教授。
そして、ひたすらの上昇志向。在野となっても権力を虚偽で擁護し、新しい学会を作り珍奇な学説で天才を自称する。自画自賛してもデタラメには変わりない。
ただ、そうすることで自分が何も解らない不幸な人間であることを忘れようとして忘れられず、仕事に没頭することで気を紛らわせていたようだ。このような可哀想な人は、同情ではなく軽蔑しなければならない。



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