袴田事件での検察官の態度は「神錯覚」
- 井上靜

- 2023年7月11日
- 読了時間: 2分
更新日:2023年7月19日
冤罪袴田事件で検察は抵抗している。
無駄な有罪立証なんかせずに速やかな無罪判決のため審理に協力するよう要請されているが、検察の体質からして合理的な対応は期待できない。

袴田事件の弁護団にいる弁護士は批判していた。
検察官は、袴田さんを今でも犯人だと信じて「死刑にしろ」と言っている。そういう意味になる、と。こんなことが許されていいはずない、と。
しかし犯人だと信じているなら検察官がバカであるに過ぎない。
もちろんバカかもしれないが、だとしてもバカなだけでないはずだ。なぜなら犯人だと信じてないからだ。いくらなんでも、あれで犯人だと本気で信じるなんて、そこまでのバカは居ないだろう。
では、よく言われるように誤りを認めたくないのか。そうでもないはずだ。すでに面目は潰れているのだから。
では、なぜか。
検察官が倒錯しているからだ。
検察官は、犯人ではない人を犯人だと決めつけて、本人とその家族の人生を滅茶苦茶にする権力を我々は持っているのだと悦に入っているのだろう。
かつて、元検察官の教授に大学で刑法を習ったさい、彼が強調したことは、「検察官は神の使いであり、その使命は人々の原罪を法律違反の形に適当に変えることで償わせてやる愛の行為だ」ということ。いつも説いていた。
そうだとしたら、検察官はアニメの「使徒」と同様の危ない存在である。
したがって、無実の主張は神に逆らうことになるのだそうだ。
たしかにそんな発想でないと有り得ない態度だ。この人だけでなく、検察官は似たような発想で司法を語る。
これは「検察ファッショ」と昔から言われる日本の司法制度が原因である。特に刑事訴訟法は検察官の権限が強く、しかも匙加減で人間の生殺与奪を好き勝手にできる形になっていて、これが「我々は神の使徒」という思い込み・思い上がりをさせる。
だから先の元検察官法学部教授は、陪審員制度の復活など絶対に反対だと言っていた。無罪になるなら最初から検察が不起訴にするものだから、起訴されたら絶対に有罪であり、それは検察官が優秀であるからで、しかも優秀だから人の生殺与奪を握っているので神様に準じた存在であるという論法である。
こういう心理を「神錯覚」(ゴッド・コンプレックス)という。
この病理への対策はある。
まずは刑事訴訟法の全面改正、次に陪審員制度の復活、これが日本の司法に必要である。



コメント