競争社会こそ発展するという迷信
- 井上靜

- 2021年10月6日
- 読了時間: 2分
中国や米国で、若者の競争離脱の動きが広がっている。
これは諦めや逃避ではなく、自分を大切にするための英断だろうと考えられている。興味が無いのに競争を強要されて巻き込まれては人生の無駄だから。
これは、かなり昔から米国の小説やハリウッド映画にも描かれていることだった。
しかし、先日死去した立花隆は、競争を強いる社会こそ発展するとデタラメを言っていた。
しかも、それを子供は嫌がっていないから素直に従っているとテレビで説いていた。そして運動会の競走で順番を付けるから子供も意欲が沸くという、よく巷で言われる迷信を受け売りしていた。
だいたい子供のころは嫌がる能力が備わっていないし、一か月でも成長が大きく体格に差があるから、走れば早生まれほど有利であるから実力ではないし努力とは無関係だ。それくらいのことは70年代から指摘されていたのに、立花隆は知らないということ。
そういう競争教に洗脳された人は少なくなかった。
そして、個人は向上して社会が発展するのは競争があってこそという信仰は、冷戦時代に流行したことで、それなりの成果が部分的にはあって、これが他より重要だとされた時代だけのこと。とうに過ぎた後は無意味どころかむしろ有害である。だから米国でも中国でも、価値観の強制に背く人たちが出ているのだ。
もともと競争社会なんてまやかしでもあった。
それでこそ発展するという迷信を信じる人は多くなかったのだ。ところが近代化の中で競争社会の迷信が幅を利かせ始めたわけだが、しかし近代化している北欧でも、人を出し抜いて勝ち優越感に浸ろうなんて発想は嫌らしいと言われていて、これを米国のメディアも肯定的に報じていたものだ。米国の競争社会を批判する意味で。
また、米国人の多くは平等な社会を求めず、なぜなら競争社会で勝ち組になりたいと考えているからであるが、では勝つために何か努力しているかというと、そんな人は多くない。だから米国は世界一宝くじが売れるのだ。




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