日本映画監督協会理事だった山際永三監督
- 井上靜
- 2024年12月12日
- 読了時間: 2分
更新日:2024年12月12日
亡くなった山際永三監督は日本映画監督協会理事だった。
また、冤罪の問題など人権擁護運動にも熱心だった。反権力の人だが、白樺派の志賀直哉と親戚で、学歴は麻布高校から慶応大学、部活はテニス部だった。よくあることではある。反対に貧困家庭の出身者が権力に擦り寄ることもよくあることだ。
あのとき、司法の問題を取り上げた『それでもボクはやってない』を撮って話題だった周防正行監督に、この映画を褒めていた山際永三監督は、日本映画監督協会へ誘ったが入ってもらえなかったと言っていた。これを機会あって周防監督に何故かと訊いたら「崔洋一が嫌いだから」とキッパリ。当時の理事長だったが、大島渚監督が理事長だったときは、おなじことを言う監督がいっぱいいたらしい。あの人は徒党を組むので嫌う人がいた。

大島渚監督の晩年、日本映画監督協会の創立記念日式典があった。
そこへ配偶者の小山明子さんに付き添われて大島渚監督は車椅子に乗って姿を見せていた。この一方で、こちらは山際永三監督から「知り合いだ」と言ってもらって、一緒に実行委員をしていた杉井ギサブロー監督に話しかけていた。これを後に雑誌記事にしている。
これはホテルの広間で立食パーティーの形だったが、食べるものに目もくれないドレスアップした美女たちが「よろしくお願いいたします」と名刺を配っていた。新人の女優たちで、コネを使って監督と製作者が一堂に会する場に売り込みに来ていたのだ。
そういうところだから、一緒に来たがった女性がいた。ちょっと付き合っていた女性だった。彼女は容姿端麗で脚本も書くからという自信過剰だった。それは別にいい。
その前から山際永三監督とは人権擁護運動で一緒だった。
ところが、彼女は「人権擁護運動なんて貧乏くさい」と、ひどいことを言う。それでいてコネだけは利用しようとした。
これに私の義理の姉が言った。「そんなに美人だったのぉ」「そんな所に連れていて通用したのぉ」
それで一緒に写った写真を見せたら「まあ、パッと華やかな感じではあるね」としながら「へッ、私の方が綺麗だな」と言った。
どちらも実に自信過剰であった。
山際永三監督は残念だが老衰だったので仕方ないともいえる。
しかし義理の姉は病気で早死にだった。中山美穂の年齢にもなる前だった。いわゆる美人薄命である。一方、その図々しい彼女は、製作者や監督に売り込むことができず『ラ・ラ・ランド』みたいに自作を演じていた。そのあとのことは知らない。
とにかく、寂しいことの連続である。
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