日本の宗教は貧乏を誤魔化すためにある
- 井上靜

- 2021年9月25日
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前に、日本の軍艦に神棚があって、それに出撃のさい手を合わせたが敗戦したという話題をとりあげた。
これは、司令官が無能で戦術が御粗末では神に祈っても駄目だという証左だが、あと日本の軍艦は欠陥設計だったので、普通なら持ちこたえられる攻撃でも沈没したという指摘がされているから、それなのに神棚を設置して祈って愚かであるし、乗組員は気の毒である。
そして敗戦後も、靖国神社や護国神社に死者を祀って「国の為に命を捧げた人を讃えるのは当然だ」と言っている。
それなら簡単だし、金がかからない。外国を見ると、大国ほど補償制度を充実させている。米国と日本を比較すると明確だが、やはり日本の国力の乏しさが判る。それを隠すために宗教を利用するしかないということだ。

もともと日本では、病気と貧困から信仰が産まれていた。
これは、医学が遅れていたり医療費が払えなかったりして宗教にすがり、それで駄目なら諦めなさいということだ。駄目に決まっているから、最初から諦めろということ。金が無くて予備校に行けないから代わりに神社で合格祈願したけれど偏差値は低い、というのと同じである。こうして、福祉厚生や教育の行政は批判をかわす。
だいたい、貧困でなく信心深い人は、病気が治るとか入試に受かるとか、そういうことと信仰は別であると言う。
もちろん、普段から健康と長寿と繁栄と幸福など大きな枠組みで、自分についても他人についても祈ることはするが、具体的なことで自分が他の人と違って成功したいというのでは信仰心ではない。
それが日本人の多くには解らない。そこへ政治家や官僚たちが付け込むのだろう。



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