偉くなった、という皮肉
- 井上靜

- 2月3日
- 読了時間: 2分
かつて同じ高校の人が、その父親に頼んださいのこと。
これは、友達と一緒に街へ飲みに行きたいから、自分らをクルマで連れて行って欲しいという頼みだった。帰りは、みんな電車やバスに乗り、彼の場合はタクシーに乗って、帰宅するから。
しかし、何か用事があってのことならともかく飲みに行きたいからというのに、親をわずらわせるというのは如何なものかと誰でも思うだろう。
すると彼の父親は、こう言ったのだ。
「クルマでお送りとは、どんなに偉くなったんだ」
これでは、駄目とは言ってないが、もう頼めない。それに、クルマで送って貰うというのは、確かに、それなりの人のことである。息子が父親に甘えて、それも未成年者の子供ではなく、成人している社会人で、やむをえない用事でもないのに、クルマで送って欲しいというのは身のほどをわきまえてない。
それでバカ息子は諦めたのだった。

「偉くなった」は、皮肉で言う言葉だ。
これは他人から評価される場合でさえ、皮肉でなければ先ず言わない。面と向かって言うのはもちろんのこと、第三者と話しているさいにも、偉くなったというと皮肉である。
「出世したね」でも、少し慇懃無礼になる場合があるけれど、失礼ではない。ところが「偉くなったね」と言ったら、それなりの地位に就いた人に対して言ったとしても皮肉になる。普通、褒めたり称えたりするさい「偉くなった」という表現は使わない。
ところが、自分で自分のことを大真面目に自慢して「偉くなった」と言う人もいる。
よく、チンピラが勘違いする。
「闇バイト」と実質が同じ汚れ役を押し付けられて、立派な仕事だと煽てられて、その気になってしまう精神の未熟な人がいる。そんなチンピラでさえ、役を任されていい気になってはいても、それで自分は偉くなったと言うことはない。他人から褒められて言われる言葉でもなければ、自画自賛するさいに使う言葉でもない、ということは解っているからだ。
ところが、たまに、損な役割を煽てられ乗せられてやらされているのに、錯覚して「頼りにされている」と勘違いしてしまう人ならいるが、それどころか「自分は偉くなった」と思って、それを堂々と口にする人がいる。
こうなると、ただ言葉づかいがなってないのではなく、精神疾患とか人格障害とかの深刻な場合だから要注意である。



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