top of page
  • 執筆者の写真井上靜

ガザでの殺戮と遠藤周作の似非キリスト教小説

更新日:2023年11月16日

 ガザで悲劇は過去に何度も繰り返された。

 そののうち昔テレビで放送された虐殺の映像について思い出す。家族を惨殺された女性が泣き叫びながら、取材に来た外国テレビに対して「これを撮って」と死体を示していた。多くの遺体が血まみれで横たわっていた。これを世界に訴えたいのだ。

 もちろん現実を知って欲しいと思うのが被害者の側としては当然のことだ。それを隠蔽したら加害者を利する。特に加害者が強者の場合は。


 ところが隠蔽すべきと言ったのが遠藤周作だった。

 あれは日経新聞に載ったコラムであった。事故も含めて、マスコミが死体などを撮って被害を訴えていることについて、遺族を傷つけることだと批判したのだ。そう言いながら実は加害者の政府や大企業を利する。この人は権勢に媚びる発言が多かった。

 だから同じキリスト教徒としてだけでなく政治的にも気が合う三浦朱門らと一緒に右翼文化人の同人誌で同人になり、その立ち位置からマスコミ報道を批判していた。それも、保守的ではあるが今よりは少しは報道らしい記事や論調があった当時の朝日新聞をアカ呼ばわりなど、当時の中曾根康弘首相の意向に沿った統一協会と完璧一致のヒステリーだったのだ。


 そんな低劣右翼の遠藤周作の代表作が似非キリスト教小説『沈黙』だった。

 これは日本で映画化とオペラ化していたが、マーチン-スコセッシ監督により大作の再映画化されたのが記憶に新しい。ベテラン監督だけに、内容の薄い原作を基に二時間四十分もの上映時間にして、それにしては退屈させない出来映えではあった。

 もちろん全体に不自然で、言葉と文化の壁があるにしてはスムーズにコミュニケーションしていたりだ。同監督は自作にカメオ出演する他にも俳優をする。黒澤明の映画では、周囲が仏語を話している中で独り英語を話すゴッホになる。そこまで不自然ではない。

 しかし問題は別にある。かつて同監督が自作ではない映画に俳優として出た映画で、共産党員であるため赤狩りでハリウッドを追われヨーロッパに去る映画監督の役をしていた。そうした政治的に迫害される人たちと、中世の日本で迫害されるキリスト教徒とを、スコセッシ監督が同じように考えていることは映画を観ていて解かるが、しかし原作の遠藤周作はマッカーシーの側である。



 監督が原作者を知らないという問題ではない。

 なによりキリスト教を日本がなぜ禁圧しているかの事情が全く描かれていないので、役人たちの態度が何故なのか判らない。それが仕事だから仕方ないと言って、煩わしてくれる信者の愚かさに辟易しているけれど、これは上からの指示だから公務員としてやっているということであり、ホロコーストの責任者アイヒマンらナチ戦犯と同じだ。

 しかしユダヤ教徒が憎まれているのとは違い、当時の日本でキリスト教が禁圧されていたのは欧州の植民地にされることを防ぐためであり、常に宗教は外国を侵略するため庶民を誑し込む道具であるから、徹底弾圧したのだ。今でも、例えば中国では政府がキリスト教会をが警戒しているのが、それに当る。

 それを、映画では文化の違いであるとし、日本の思想的な後進性に原因があるとしている。だから、宣教師が信徒たちを助けるため転んで見せて密かに個人の内面で信仰を守っていたという、とうてい宗教的ではないオチになったのである。この原作は諸外国のキリスト教界から批判されたが、ほんとうに怒るべきなのは野蛮人にされた日本人の方である。


 マーチンスコセッシ監督は信者を自称していた。

 そういうことにしておいて、前にはイエスを主人公にした映画を撮っていた。ピラト総督にデビッド-ボウイが扮して延々と語らせ観客席の大アクビを誘ったうえ福音書に無い脚色をしてキリスト教界から猛批判されたのだ。

 つまり、これは同監督の「炎上商法」なのではないか。キリスト教徒だったら絶対に有り得ない発想である。そう思っておけば、遠藤周作の小説なんかを真面目そうに映画化したけれど、赦せるのだ。

閲覧数:49回0件のコメント

関連記事

すべて表示
bottom of page