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​炬火 Die Fackel 

更新日:2022年1月15日

 去年のウイーンフィル・ニューイヤーコンサートは無観客で開催された。

 それを今年の元旦に聞いて、思い出した。しかし、どこで観たのか思い出せない。ウイーンに行ってないし、自宅にテレビは無い。きっと去年は今年と違って大忙しだったから、どこかでテレビを見たけれど、どこだったのか記憶していないのだろう。


 今年は感染対策を念入りにして観客を入れたそうだ。

 それで、検査とともに薬を徹底したということで、製薬会社にとっては良い宣伝になっただろう。もちろん、もともと特権階級の楽しみだから、当たり前のことかもしれないが。富裕な観客たちと、実力よりむしろ後ろ盾(紅白の『~事務所枠』みたいな)なのに名誉とされる指揮者。NHKの中継では何もしらない芸能人たちが無知をさらけ出すコメントをしていて、ひどすぎると見た人達が怒っていた。特にクラシック音楽は平和のためとか、おバカ発言が顰蹙を買っていた。何を言うのか。あんなのは、寒さに凍える難民たちをはじめ、世界中にある貧困など別世界のことだと思って悦に入る人たちの楽しみである。


 特にひどいのが指揮者のダニエル-バレンボイムだった。

 彼は前に「中東に正義を」と指揮台から呼びかけたが、それならアンタが国籍を移したイスラエルをなんとかせいと野次りたくなるし、今年はコロナウイルスについて一席ぶってみせたけれど中身がスッカラカン。しかし、薬の副作用についてどうなのか、コンサートの背景に誰がいるのか、などと訊いても無駄だろう。音楽家の言うことなんて体育会系のアスリートたちと同じだから、所詮この程度だと思うしかないのだろうが。

 

 毎度、ニューイヤーコンサートでは、テロップで歴史的背景が説明される。

 しかし、ここでは歴史の上辺をなぞっただけである。その裏では何があったか。多くの貧困、そしてなにより特徴的だったのが戦争と虐殺である。

 かつて大学でドイツ語を習った先生はオーストリア文学が専門だったので、リヒャルト-シュトラウスとホフマンスタールのオペラなどの話にも詳しかったが、もう一つ。その当時オーストリアでは文学も盛んで、そこでは風刺や社会批判も辛辣だった。特に批評家のカール-クラウスが『人類最期の日々』で戦争を告発したり、個人批評誌を発行して当時のジャーナリズムが戦争を正当化したり煽ったりしている実態を手厳しく指摘したり、ということがあった。


 「血の海で水泳の修練に余念がない」とか激烈な言葉づかいであった。

 しかし社会主義者バティスティがオーストリア軍部によって殺され吊るされている様子を撮影して絵葉書にするという残酷なことまであった情勢を捉えてのことだったので、決して過激とか言い過ぎとかではなかった。



 そういう話が、別に開いていた文学の講義で語られていた。

 この影響は大きかった。これでいちおう大学に行って良かったとまで思った。だから華やかな背景にある権力と戦争について無視できないのだ。今なら、血の海で水泳の修練に余念がないウイーンフィル・ニューイヤーコンサートの演奏家たちと観客たちこそ、吊るして絵葉書にすべきではないか。

 ということで、今年もカール-クラウスの精神で発言したいと考えている。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年12月20日
  • 読了時間: 2分

 コロナウイルス新型肺炎のため中断されていたバイロイト音楽祭が再開された。

 これは様々な感染対策を講じてのことだったが、ここで特に音楽の演奏は保存版というくらい良かった。また、新しい演出もウケていたそうで、普段は奇抜な演出にはブーイングが必ず起きるのに、今回は拍手喝采だった。



 そこではワーグナーの女性観が否定されていた。

 よく、女性のオペラ評論家がワーグナー劇は苦手だと言うのは、女性の自己犠牲が讃えられているからで、そんな男性に都合が良い女性像には否定的になるのだ。今となっては時代錯誤も甚だしいというわけだ。それを否定する演出だった。


 日本でワーグナーに影響された最たるは松本零士である。

 これは既に述べたとおり、『銀河鉄道999』の物語は『ニーベルングの指輪』と酷似しているし、眼帯して方に黒い鳥がとまっているキャプテンハーロックはヴォータンだし、ネコ好きな松本零士なので小人のミーメはネコのミーメになっていて、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』ならぬ『SF西遊記スタージンガー』なんて作品もある。女性の自己犠牲は『宇宙戦艦ヤマト』で「古代くんが死んじゃう」から繰り返し描かれている。

 これを今でも感動する男性に、『エヴァ』のアスカなら言うだろう。「あんたバカぁ」


 今年バイロイト音楽祭では『タンホイザー』と『さまよえるオランダ人』で女性の自己犠牲が否定されている。

 それも、オランダ人と一緒に死ぬことで魂を救済する女性ではなく、最後に女性がオランダ人を銃で射殺してしまい、これで死ねて本望でしょう、という結末である。これはこれで最高ではないか。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年12月13日
  • 読了時間: 2分

 NHKで放送していた退屈な番組の録画を知人に見せられた。

 それは、死んだ「作曲家」すぎやまこういち特集だった。どう思うかと言われたが、昔から思っていたとおりで、彼は時勢に迎合するのが上手だったけれど、それが改めてよく判るというだけのこと。


 あくまで、昔から全く純粋に彼の作る音楽が嫌いだった。

 これは公言していた。もうほんとう小さい頃、最初にテレビで『学生街の喫茶店』を聴いたころから、テレビで聴くたびに壮絶な嫌悪感で、いったい誰がこんな悪趣味な曲を作るのかと思っていたら、あれもすぎやまこういち、これもすぎやまこういち、ということだった。  


 これは条件反射や連想ではない。それだったら、あのカレールーの中でも最悪のものが不味いからと、テレビで宣伝の歌を唄っている西城秀樹とその歌声に嫌悪感を持っていいはずだ。そうではなく、CМソングの節回しが気色悪いだけなのだ。


 だからテレビのアニメで、主題歌だけなら歌が終わっってからテレビを付ければいいが、伴劇の音楽まですぎやまこういちだと、物語は面白くても気持ち悪い音楽に耐えられなくて観なくなった。


 これは完璧に趣味と好みの問題である。

 それも、ああした世渡り上手な者にありがちなパクリっぽさの部分ではない真に彼の個性かと思われる部分にこそ嫌悪感だったから、理屈ではなく感性で正直に素直に胸糞が悪いのだ。つまり心底から本当の意味で嫌いだったということだ。

 ということは自分の勝手だし、耳にして耐えられたり楽しかったりする人も勝手である。こちらは聞かなければいいし、聴いている人に文句もつけないし、だから退屈なテレビ番組の録画なんか見せないで欲しかった。


 あとは差別主義者すぎやまこういち問題

 これは彼が処世術で権力に媚びてネトウヨやっているから、もともとそういうものだし、そういうことを一切しない有名人は殆どいないのだから、批判しても意味がない。上手に稼いだ金から多額の政治献金をした御陰様でオリンピックのさい演奏してもらえたというのも、本人が恥ずかしくないなら仕方ないし、似たようなことは誰でもしている。

 ただ、ここで残念なことがある。そんなことばっかりしてきた人だからと批判する人がいるため、純粋に音楽が大嫌いだったと言いにくくなってしまった。「ゲームの音楽が好きだったのに差別発言して残念」という人に対して、嫌いな音楽ばかり作る奴の話題なんてやめてくれよと、ほんとうは言いたいのだから。


 
 
 
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