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​炬火 Die Fackel 

更新日:2021年11月17日


 衆議院議員選挙の結果について、大手マスコミが挙って野党共闘が失敗したというより悪いことだと有権者たちは判断したのだと喚いている。


 もちろん、数値からすると、これまでのように野党分裂選挙ではありえない成果があり、また当選できなくても惜敗であったりして、あと少し足りなくて標榜した政権交代に失敗したが、与党としては脅威ではあること間違いないという指摘が出ていて、たしかにその通りだろう。

 そして、これを大手マスコミが失敗というより悪いことだと非難するのは、それだけ政権にとって脅威だから止めさせたがっている証拠だと、ある小説家が言っていたけれど、これもその通りだろう。


 つまり、大手マスコミは完全に政権与党に与しているということだ。

 その中で、朝日新聞の天声人語が酷すぎると怒っている人たちがいるけれど、もともと天声人語は酷すぎるものである。

 これは、朝日新聞が天声人語をまともな記者に書かせないからだ。その昔からある指摘を紹介しながら拙書『朝日新聞の逆襲』で話題にしていた(詳しくはホームページ参照)けれど、しかし天声人語を美化している人たちには理解できないというより信じたくないのだった。



 このたび、『週刊朝日』で山藤章二の連載が終了するそうだ。

 かつてその風刺画が右翼団体を皮肉ったら、その親分が朝日新聞で拳銃を発砲し、当人が死んだ事件があった。このときちょうど『徹子の部屋』に出る予定だった山藤章二の収録が見送られた。昔、天声人語は風刺に絡み右翼のテロ事件を煽るも同然のことを書いていた。言論への暴力について朝日新聞が鈍感だったからで、そこからまるで因果応報というべき事件だった。

 そういう問題を拙書は話題にしていたし、そういう関心がなくても天声人語に共感できると言う人は元々むしろ少ないのではないか。


 また、拙書の題名について最初に断っていたのに、正反対に思っている人もいる。

 その勘違いで、もともと『フランケンシュタインの逆襲』『ゴジラの逆襲』などというのと同じだということが、その部分であったのだが、悲観的であるというのは良くないという意見を容れて編集されているので、そこから誤解も生じているのだろう。

 前にも述べたが、『アルジャーノンに花束を』の結末を変えろと作者は言われて断ったことが二度あったそうだけど、それは物語だから結末が大事なのに対して、言いたいことは書いた後に最初とは少々違ったことがあってもやむを得ないということであったのだ。だから本当は死んで墓に埋められていて『朝日新聞に花束を』という趣旨だったのだ。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年11月13日
  • 読了時間: 2分

 今さら「若い人ほど自民党支持」とマスコミが騒ぐ。

 こんなことは昔からのことだ。若い人ほど付和雷同するものだから保守的であるし、親の庇護があって当たり前だった人は社会に出る前はもちろん出てからも現状維持志向である。


 死んだ立花隆も指摘していた。

 産まれてから生活に困っていないで来た若者は社会の不正などに関心を持たないし、田中角栄など圧倒的な力を持つ政治家がいると、どうあがいても強い者には敵わないという諦めの心理が発生する。



 では、親が貧乏だったりして不遇な人は違うかというと、そうではない。

 もともと恵まれていない人ほど、現実を見ようとしない。知れば知るほど惨めになるからだ。これが貧しい人だと、現実を見ても見なくても同じで、何も解らなくなってしまう。しかも、今がぎりぎり厳しい人は、このままでは危ないとは思っても、それで少しでも変わると足を踏み外してしまうような不安や恐怖に囚われてしまう。だから、余裕がないから臆病になり現状にしがみつく。


 ただ、自分さえ良ければと考える人ばかりではない。

 どんなに自分が恵まれていても、そうでない人が世の中にいることを無視しては不道徳だという武士道・騎士道の精神を持つ人はいるものだ。方や、どう見ても恵まれていない人が、生まれつき社会から恩恵を受けているので現状維持が良いと言っている。こんなのは滑稽だが、ほんとうは惨めであることを隠したいのだから仕方ない。


 こんなことは、昔から今まで変わっていないし、未来永劫そのままだろう。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年11月12日
  • 読了時間: 2分

 これは、あるユーチューバーの医師が語っていたこと。

 一人の女子高生が、同じ学校の同級生の女子に嫌がらせを執拗にされているという相談をしてきたそうだ。なぜ意地悪をするのか不明だから対処の仕方を思いつかない、ということだった。

 これに対して、その医師は、いい意味での仕返しをしようと提案していた。同じことを仕返ししては、相手の品の悪さと同じ水準に自分を貶めてしまうから、そうではなく、勉強でも部活でも頑張って、あんなに努力している立派な人に嫌がらせする人は軽蔑される、というようにするべきだ、と言う。



 これに共感するコメントが付いていたが、甘いなと思った。

 なぜなら、だいたい執拗に嫌がらせをする人は、そもそも相手が立派な人だから憎くて、ちょっと気食わないくらいでは済まず執念深くなるものだし、そんな醜い心情を隠さず行動に出せるのは学校の雰囲気がそうだから。

 この原因は、やはり教師も妬んでいたり、努力する者を枠からはみ出す者だと見做していたりで、同じように憎んでいるから。


 これは実際に自分の行っていた高校であったことだ。

 いつも成績が学年トップのうえ模擬試験でも複数の科目で上位という人が、同級生の執拗な嫌がらせに耐えてきたが遂に退学して他所へ転じた。そこから現役で一流大学に入った。

 この事態に教師たちが困ったり悩んだりしたかというと、平気でいたり歓迎していたりだった。


 ある同級生は「あの人は高校の選択を間違えた」と言って笑っていた。

 そう言う人がいるのは、学校の教師たちが、そんな教育方針だったからだ。空気を読まずに努力することは枠からはみ出す。それでは、いくら良い成績を取っても駄目だ。品の悪い運動部が実力主義でなく、先輩より上手なのが生意気だと言われ、たまには集団で暴力をふるわれたりもするけれど、それと同じである。

 それに疑義を感じる生徒はケシカランと言われた。だから、口に出さずやり過ごして卒業したら悪夢だったと思って忘れることだと言う生徒もいた。

 

 こういうことは、昔の洗練されていない時代のことで今は無くなったのかというと、相変わらずである。

 しかし、医学部に行ける恵まれた人には、想像できないのではないか。

 

 
 
 
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