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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年11月12日
  • 読了時間: 2分

 これは、あるユーチューバーの医師が語っていたこと。

 一人の女子高生が、同じ学校の同級生の女子に嫌がらせを執拗にされているという相談をしてきたそうだ。なぜ意地悪をするのか不明だから対処の仕方を思いつかない、ということだった。

 これに対して、その医師は、いい意味での仕返しをしようと提案していた。同じことを仕返ししては、相手の品の悪さと同じ水準に自分を貶めてしまうから、そうではなく、勉強でも部活でも頑張って、あんなに努力している立派な人に嫌がらせする人は軽蔑される、というようにするべきだ、と言う。



 これに共感するコメントが付いていたが、甘いなと思った。

 なぜなら、だいたい執拗に嫌がらせをする人は、そもそも相手が立派な人だから憎くて、ちょっと気食わないくらいでは済まず執念深くなるものだし、そんな醜い心情を隠さず行動に出せるのは学校の雰囲気がそうだから。

 この原因は、やはり教師も妬んでいたり、努力する者を枠からはみ出す者だと見做していたりで、同じように憎んでいるから。


 これは実際に自分の行っていた高校であったことだ。

 いつも成績が学年トップのうえ模擬試験でも複数の科目で上位という人が、同級生の執拗な嫌がらせに耐えてきたが遂に退学して他所へ転じた。そこから現役で一流大学に入った。

 この事態に教師たちが困ったり悩んだりしたかというと、平気でいたり歓迎していたりだった。


 ある同級生は「あの人は高校の選択を間違えた」と言って笑っていた。

 そう言う人がいるのは、学校の教師たちが、そんな教育方針だったからだ。空気を読まずに努力することは枠からはみ出す。それでは、いくら良い成績を取っても駄目だ。品の悪い運動部が実力主義でなく、先輩より上手なのが生意気だと言われ、たまには集団で暴力をふるわれたりもするけれど、それと同じである。

 それに疑義を感じる生徒はケシカランと言われた。だから、口に出さずやり過ごして卒業したら悪夢だったと思って忘れることだと言う生徒もいた。

 

 こういうことは、昔の洗練されていない時代のことで今は無くなったのかというと、相変わらずである。

 しかし、医学部に行ける恵まれた人には、想像できないのではないか。

 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年10月6日
  • 読了時間: 2分

 中国や米国で、若者の競争離脱の動きが広がっている。

 これは諦めや逃避ではなく、自分を大切にするための英断だろうと考えられている。興味が無いのに競争を強要されて巻き込まれては人生の無駄だから。

 これは、かなり昔から米国の小説やハリウッド映画にも描かれていることだった。


 しかし、先日死去した立花隆は、競争を強いる社会こそ発展するとデタラメを言っていた。

 しかも、それを子供は嫌がっていないから素直に従っているとテレビで説いていた。そして運動会の競走で順番を付けるから子供も意欲が沸くという、よく巷で言われる迷信を受け売りしていた。

 だいたい子供のころは嫌がる能力が備わっていないし、一か月でも成長が大きく体格に差があるから、走れば早生まれほど有利であるから実力ではないし努力とは無関係だ。それくらいのことは70年代から指摘されていたのに、立花隆は知らないということ。


 そういう競争教に洗脳された人は少なくなかった。

 そして、個人は向上して社会が発展するのは競争があってこそという信仰は、冷戦時代に流行したことで、それなりの成果が部分的にはあって、これが他より重要だとされた時代だけのこと。とうに過ぎた後は無意味どころかむしろ有害である。だから米国でも中国でも、価値観の強制に背く人たちが出ているのだ。


 もともと競争社会なんてまやかしでもあった。

 それでこそ発展するという迷信を信じる人は多くなかったのだ。ところが近代化の中で競争社会の迷信が幅を利かせ始めたわけだが、しかし近代化している北欧でも、人を出し抜いて勝ち優越感に浸ろうなんて発想は嫌らしいと言われていて、これを米国のメディアも肯定的に報じていたものだ。米国の競争社会を批判する意味で。

 また、米国人の多くは平等な社会を求めず、なぜなら競争社会で勝ち組になりたいと考えているからであるが、では勝つために何か努力しているかというと、そんな人は多くない。だから米国は世界一宝くじが売れるのだ。




 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年9月30日
  • 読了時間: 2分

 日本には「産み道具」という言葉がある。

 これは主に武家によって定義された認識で、女性を人間ではなく子供を作る道具と考える発想である。だから「産まず女」と言われる子供を産めない女性は役立たずだから御家にとっては存在意義が無いということで、いくら当の夫婦が愛し合い一緒に暮らして幸せでも、子孫が出来ないならお払い箱になる。


 これは戦後になって明確に否定されたはずだった。

 しかし、婚姻は両性の合意のみによって成立するとか、個人を尊重して男女は平等であるとか、そういう封建制を否定した憲法は悪いと言う人が自民党によくいる。これを公言していたうちの一人が安倍晋三であり、そんな憲法を何十年も有難がってきたのは異常だとテレビで言い放った。

 

 だから安倍晋三は、他所で立候補しても当選できない杉田水脈を自民党の力で議員にした。

 その安倍晋三の期待にちゃんと応えた杉田水脈議員は、性的少数者を甘やかしていて度が過ぎると月刊誌上で発言したうえ、子供が出来ない夫婦は「生産性が無い」から社会的に存在意義を認められないと切り捨てた。

 それなのに、安倍晋三は称賛しなかった。それどころか自分もその杉田水脈議員の発言により「傷ついた」と言った。


「死ね」に見える。例の話題になったブログは、このパロディ。



 なぜなら昭恵夫人が不妊治療しても子供が出来なくて残念な思いをしていたから。

 自分たち夫妻も「生産性が無い」ので失格ということになってしまう。

 それはおかしい。子供を産めない女でも好きなら一緒にいて幸せになればいいと規定した憲法なんて、そんなのを有難がるのはとんでもないと言ったわけだから、そんな昭恵のような「産まず女」に、晋三は「三行半」を突き付けて離縁するべきだったはずだ。


 そんな自分のことは棚に上げる安倍晋三と違うのが医学界である。

 過日、妊娠したけれど相手からの連絡が途絶えたという未婚女性が、男性の同意がないと中絶できないと医療機関から拒否され、公園のトイレで産気づいて出産し遺棄したため逮捕されたと報じられた。

 そもそも、出産には命を失うリスクがあるのだから、命のかかっている者に決定権がある。それを男性の同意が必要というのは、女性を「産み道具」と呼んでその意味の通りに定義した扱いをしているからである。そんな非人道的な対応せずとも法的に柔軟な対処はできたと指摘されているが、しかし医学界は入試でさえ女性の点数を操作するほどの男尊女卑だから、封建時代と同じ発想でいたのではないだろうか。

 
 
 
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