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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年1月20日
  • 読了時間: 2分

 親に金を出してもらったとか遺産があったとかで、それを費用にして大学や大学院に行ったという人がいる。

 そのことで嫉妬されることがあるのは当然だが、他所の家庭のことなのだから煩いと言う人の話があった。まあ、自慢でもすればともかく、ただ幸運だったら「良かったね」で済む話である。あとは、うちにお金が無いと進学できない社会制度の欠陥に文句を言うべきだ。


 ただ、嫉妬ではなくてケチを付ける人がいるもので、その証拠にそんな人は、うちに金が無いので苦学している人まで、まったく同じようにケチを付ける。

 そんな人たちは、進学するのは働くのが嫌で遊びたいからだと信じているのだ。それで、親に学費を出してもらっている人も、自分で働き学費を稼いでいる人も、同じようにバカやっている奴だと思うのだ。


 そんな人の親も、そういうものだと信じている傾向がある。

 実際に、遊んでばかりで勉強しない人の親が、自分の甘やかしたバカ息子の同級生について、その人は親がいないので働きながら大学に行って勉強をちゃんとしているけれど、それに対して「貧乏人のくせに遊び惚けている」などと非難していたりする。そんなのに出くわすと思わず「はぁ」と言って首を傾げたくなるが、どうみても本気なのだ。

 

 そういう人たちの多くは、大学とは田舎から都会に出たくて行くものだと思っている。

 そうみたいだ、ということではなく、そうだと断言する人たち大勢に会ったことがある。どこの大学のどんな学部に行くのかも、偏差値も関係ない。そういう人に言わせると、この気持ちが解らない者は、小さいころから18歳くらいの時まで田舎にいた者の苦悩・苦痛を知らない、のだそうだ。

 そんなこと言う人の話で思い当たったが、同じ高校の人で、ただ働きたくないだけで受験勉強もしない者は「Fラン大」に行ったけれど、そうでない人は避けていて、だから少しは受験勉強していた。Fラン大とは不人気で定員割れだから入試の難易度が無いけれど、そうなる主要な事情として辺鄙なところにある。

 


 そういうことなので、勉強するつもりがないのに進学する人は昔から少なくないのだ。

 
 
 

 過日の、何人もの犠牲者が出た放火事件の容疑者は、預金残高が僅かだった。

 また、この報道によると、彼は家庭の事情その他いろいろあって食い詰めてしまい、生活保護の相談をしていたのに実現しなかったということだ。そのさい「もういい」と短気を起こして帰ったことがあったらしい。おそらくツベコベ言われてしまったのだろう。この男性はもともと職人で、腕が良く、後進の指導も上手だったが、そういう人にありがちな頑固者だったそうだ。



 そこから事件とならないように福祉制度がある。

 もちろん、生活保護は生存権に基づくものであるが、その事件のように困った人が自棄になると危険であるから、この観点も重要である。昔から指摘されている常識だ。これは米国で言われていることだが、どんなに警察の予算を増やしても福祉で防げる犯罪の方が多く、しかも安上りだという現実から、社会保障は合理的かつ経済的なのだ。


 また、頑固な職人ではなく知識人が食い詰めたら社会の破壊になる。

 もともと食えない芸術家と同じことは知識人にもあるが、ただその鬱憤だけでなく、スポイルされている場合は、社会に対して攻撃的になる。


 理科の教師が東海村から盗んだ原料で原子爆弾を造って政府を脅迫する映画があった。

 この劇中、主人公がテレビをつけるとウルトラマンのシリーズの一つの最終回が放送されている。この最終回の監督が前のシリーズで監督をした中に、子供のころから成績優秀だった男が、金にならない生物学なんてやっていると父親から言われて、その反発から新しい生物を作って自分は天才だと嘯くものの、それが怪獣になって暴れ出してしまう、という話があった。

 また、ハリウッド映画では、細菌兵器を作って政府を脅迫する学者の話がある。SFだから細菌兵器だし、子供むけなら怪獣やロボットを作って暴れさせるけれど、これらは要するに知識人が社会に鬱憤をもっていて、その知識を用いて自分を疎外する社会に復讐するため破壊的になるということだ。


 そして弁護士が失業者になると革命や叛乱である。

 レーニンもガンジーも食い詰め弁護士だった。レーニンは兄が反政府運動に関与した疑いで殺され、ガンジーは人種差別に遭って暴力的に扱われ、それで堪忍袋がブチ切れたのだった。

 そして今の日本では大卒・院卒の失業者が増加傾向にある。そのうち職人がガソリンぶち撒いて放火どころでは済まなくなるのではないか。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年12月26日
  • 読了時間: 2分

更新日:2021年12月27日


 前に、80年代は良い時代だったのかという問題を話題にした。

 80年代は今と違って非正規雇用の横行などがなかったけれど、家庭内暴力や校内暴力がひどく、それは終身雇用に年功序列が当たり前であったものの、その枠組みに納まる人間である必要があり、その証明の最たるものが学歴だったから、ほんらいは人生の一部でしかないことで落ちこぼれとなっても気にすることないはずなのに、それが社会の落伍者を意味していて、不運にもそうなった者は絶望から非行や自殺に走った。

 それで後世の人たちは、よく美化して語られるのを聞く一方で、その実態を知ると不可解というということだった。


 「ジャパン-アズ-ナンバーワン」と言われた。

 それが70年代の後半で、80年代にはピークとなった。しかし、地に足ついてないとか、長続きしないとか、そういう指摘はあった。ただ、当時の雰囲気は、まさか、中国に圧倒されているとか、韓国より賃金が低いとか、そんなことになっている今の日本を想像させなかったのだ。理屈で解ってもイメージとして無理だった。



 これは80年代を知らないと実感が極めて困難であろう。

 しかし、知っている人は思い出して欲しいが、あの当時の最大のスターであるだけでなく時代の象徴とまで言われた松田聖子が、まさか娘の位牌を持って神田正輝と一緒に会見して、遺骨を持った神田正輝が「沙也加を荼毘にふした」と報告している様子など、想像を絶したことだったはずだ。

 そういうことも不幸にして起こり得ると理屈では解っても、イメージとして、とてもではないが80年代にはとうてい考えられなかった。


 80年代とは、そんな時代だったのだ。

 
 
 
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