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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年9月7日
  • 読了時間: 4分

 河野デジタル担当相が、フロッピーディスクを行政から排除する意思を示した。

 これは外国メディアからも報道されたが、そのさい桜田セキュリティ担当相のことがひきあいに出されていた。あの当時、彼はパソコンを秘書らに任せっきりで自分では使用しないからUSBメモリーを知らず、それを利用した原発へのサイバーテロの問題について国会で質問されてもチンプンカンプンの答弁をした。このため、日本は震災で原発事故が起きたけれど、さらにこんな無知なサイバーセキュリティ担当大臣を据えていると、世界各地に報じられていた。

 それで、機器の点で遅れた行政を何とかしようと、デジタル担当相が言い出した、という趣旨の海外メディア報道である。



 フロッピーディスクの使用が盛んだったのは20年くらい前だろう。

 今のUSBメモリーやSDカードと比べて、フロッピーディスクは容量が桁違いに少ないし、破損などで読み取り不能の深刻な事態も多かった。それでも、MSXパソコンからカセットテープに記録していた時代に比べると、ワープロやデスクトップパソコンからフロッピーディスクに記録するようになると遥かに便利になったのだった。

 しかし、例えば真空管だと、音が柔らかくて聴き心地が良いとオーディオマニアが言うとか、軍事用では核爆発の電磁衝撃波に強いとか、そういうことならともかく、ただ古くて性能が劣るものに拘ることはないはずだ。


 同様に言われているのがファクシミリである。

 まだ使っているだけならいいが、裁判所はファクシミリでないと駄目だという。時間がかかる、相手の都合で送信した時間に割り込まれる、そのうえ話し中になる、都合の良い時間に取り出せない、感熱紙は元々画質が悪いうえコピーしないと保存できない、料金もかかる、などなど実に不便であるが、かつては固定電話だから安心だと言われた。

 しかし、かつてはインターネットの送受信で不安もあったが、いわゆるスパムと判断されないように設定しておけばいいし、電話の番号よりは間違いが少なく、届かなかった場合は「メール・デーモン」の自動返信があって判るので、確認の電話をかけないと届いたか不明なファクシミリよりは安心である。電話回線に便乗していたインターネット回線と違って送受信の量は多い。PDFは、よほど画質鮮明である。

 しかし昔のままである。それも当然のこと。


 とくに家裁や簡裁の司法委員などひどいものだ。

 かつては良識の発揮といいながら、老人が古い感覚で「亭主が女房を殴るくらい当たり前なのだから、女は怪我しようと我慢しないといけない。私だって妻がちょっとでも生意気な口をきいたら容赦なく思いっきりぶん殴っている」と笑いながら言ったりしていたものだった。

 これが今は、インターネットに関係すると老人が桜田セキュリティ担当相顔負けのチンプンカンプンである。高齢者でも熱心な人はいるけれど、全体的には駄目であるし、自分はエライから知らなくても非難されるべきではないと思っている。

 先日、裁判所で、インターネットの司法問題について例のDAPPI事件について触れたら、司法委員は知らなかった。それ以外のインターネット諸問題も全然知らない。それでいて、期日を決めるのに裁判官が「司法委員の先生の御都合」などと言うので失笑であった。 


 裁判官や弁護士も無知が問題である。

 やはり専門家でありながら専門知識が御粗末である。医師など免許を取得してからも勉強しているが、法曹では資格を一旦取得したら全知全能だと錯覚しているような態度で勉強していないのが明らか。司法試験どころか学部の卒論でも落第という人が可成りいる。まして社会一般の常識だと義務教育で習う範囲すら駄目である。

 それでいて、俺様はエライのだから知らなくてもいいという態度だ。これはハッキリと言っている。裁判の当事者になった人なら、だいたい法廷外の準備期日で出くわしている。専門家だから知らないといけないのではなく、偉い人だから知らないことを咎められなくていい、などと言う裁判官や弁護士に。

 この調子だから、とうぜんながら文書の保存など考えたこともないのだ。かつて歳をとりすぎた自治会長が、自治会のお知らせのためホームページを作ろうと住民が提案したら「回覧板でいい」と言って、この提案をした住民に嫌がらせをして裁判になったことがあるけれど、裁判官は自分だってインターネットはサッパリ解らないのだから提案した住民が悪いという判決が東京高裁で現実にあった。裁判所の若い職員に訊いたら、年配の裁判官なんてパソコンで雛形に入力して文書作成が精いっぱいと呆れていた。

 

 そこで、少し政治家に頑張ってもらったほうがいいだろう。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年9月2日
  • 読了時間: 2分

更新日:2022年9月2日

 八月十五日が終戦記念日というのは嘘。

 もちろん、庶民からすればやっと終わってくれたという感じがしたので受け容れられたのだろうが、政府としては負けたと素直に言いたくなかっただけだ。


 この歴史的な考察は色々あるので、それをここで語っても意味は薄い。

 ただ、かつて『ドリフ大爆笑』で八月十五日のコントがあり、いかりや長介がラジオの前で「これから放送で天皇陛下が…」と泣きべそで言い、放送が始まると集まった人たちが緊張して聴いているが、流れて来た天皇の声は加藤茶が演じていて「負けちゃったっ、ナーハハッハッハ」と笑うので皆ずっこけこる。

 この笑い方は当時の加藤茶のギャグの一つであったが、ようするに「負けちゃった」ということである。かつては、テレビのお笑い番組で、こういう風刺ができたのだ。


 だから、八月十五日は戦争で勝てないと諦めを公式に表明した日である。

 それだけでは終わらない。戦争は八月いっぱい続いていた。死傷者も出ている。降伏すると言っても相手が攻撃を止めてくれず皆殺しということも歴史には色々とあった。戦争は相手方があるので、終りにする双方の同意が無いと終わらない。



 終戦はミズリー号の艦上で全権大使が降伏するという署名をした九月二日である。

 これをうけてロシアなど他国も終戦は九月二日であるとしている。だから八月十五日は敗戦の日であり、終戦の日は九月二日である。そろそろ政府はデタラメを訂正するべきである。 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年8月24日
  • 読了時間: 2分

 ツイッターやフェイスブックで催しの知らせがある。

 すると「行けなくて、すみません」と意味の無いことを投稿する人がいて、不快がられる。これは何なのか。

 おそらく「自分が握手会に行かないとアイドルが悲しむ」と思い込んでいるファンと同じ心理なのだろう。


 しかし権力と闘う人に「自分には何もできません」と言う人は、どうしてか。

 「偉いですね」とか「勇気がありますね」とか言うだけなら、おちょくっているとか嫌がらせしているとかなので無視すればいいが、「私には知識も能力も無いので何もできないれけれど、応援しています」と真面目に言うから奇妙である。

 

 あのノーム-チョムスキー教授が言っていた。

 こんな時アメリカでは「私でも何かできることはありますか」と質問する人がいるそうだ。これはもちろん、自分なりに何かしたいと考えていることが前提としてあり、最初から諦めてはいない。そんな余裕がある人だから関心を持つのであって、余裕が一切無いなら関心を持つこともない。


 例えば裁判で闘っている人には、費用の支援が最も有益だ。

 そこで現金は抵抗があるから物品の販売をすることがあり、これは地方の議員もやっていることだ。アクセサリーを作って売る人や手作り石鹼を売る人から、ジャムやステーキソースを作って空き瓶に詰めて売る人までいる。

 これが著書のある人なら、その購入で支援できる。複数冊を購入して友達にあげたりすることもある。



 そして、これは黙って実行するべきだ。

 それを伝えて恩を着せるのが嫌らしいという問題より、支援したけれど期待外れとか失望とか必ずあるからだ。それは仕方ないことだと思うしかないのだ。ところが、口に出しておいてのことだと、些細な齟齬で余計な落胆をすることになってしまう。

 つまり共同募金とは違うのだ。その赤い羽根は、皆でやることだから同調圧力の意味でも印があって当然のことだが、それとは違い個人の考え方ですることだから、ひっそりと実行して、その先を黙って見守るものなのだ。


 
 
 
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