支援は募金と違い口に出さないもの
- 井上靜

- 2022年8月24日
- 読了時間: 2分
ツイッターやフェイスブックで催しの知らせがある。
すると「行けなくて、すみません」と意味の無いことを投稿する人がいて、不快がられる。これは何なのか。
おそらく「自分が握手会に行かないとアイドルが悲しむ」と思い込んでいるファンと同じ心理なのだろう。
しかし権力と闘う人に「自分には何もできません」と言う人は、どうしてか。
「偉いですね」とか「勇気がありますね」とか言うだけなら、おちょくっているとか嫌がらせしているとかなので無視すればいいが、「私には知識も能力も無いので何もできないれけれど、応援しています」と真面目に言うから奇妙である。
あのノーム-チョムスキー教授が言っていた。
こんな時アメリカでは「私でも何かできることはありますか」と質問する人がいるそうだ。これはもちろん、自分なりに何かしたいと考えていることが前提としてあり、最初から諦めてはいない。そんな余裕がある人だから関心を持つのであって、余裕が一切無いなら関心を持つこともない。
例えば裁判で闘っている人には、費用の支援が最も有益だ。
そこで現金は抵抗があるから物品の販売をすることがあり、これは地方の議員もやっていることだ。アクセサリーを作って売る人や手作り石鹼を売る人から、ジャムやステーキソースを作って空き瓶に詰めて売る人までいる。
これが著書のある人なら、その購入で支援できる。複数冊を購入して友達にあげたりすることもある。

そして、これは黙って実行するべきだ。
それを伝えて恩を着せるのが嫌らしいという問題より、支援したけれど期待外れとか失望とか必ずあるからだ。それは仕方ないことだと思うしかないのだ。ところが、口に出しておいてのことだと、些細な齟齬で余計な落胆をすることになってしまう。
つまり共同募金とは違うのだ。その赤い羽根は、皆でやることだから同調圧力の意味でも印があって当然のことだが、それとは違い個人の考え方ですることだから、ひっそりと実行して、その先を黙って見守るものなのだ。



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