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​炬火 Die Fackel 

更新日:2022年10月14日

 「ひろゆき」こと西村博之という人が炎上して言い訳している。

 それでニワカであることが露呈しているが、特に酷いのは、沖縄で米軍基地反対運動をしている人に沖縄県外の人がいることを悪いことのように言ったことだ。


 いま沖縄県という日本の一部になっている。

 沖縄は日本国に主権がある日本国の領土である。そこへ、日本人が納めた税金が原資である費用で軍事基地を建設している。この軍事とは、警察と同様に、国の主権を守る実力行使をするためにあり、国だけに認められている。

 それなのに外国軍の基地を建設するのは自国の利益にもなると合意しているからで、では真に有益なのかという議論が起きて当然のことだし、しかも、基地が完成したら日本にとって役に立つのかと疑問があるだけでなく、それ以前に土地の条件が悪くて基地が完成しない恐れも指摘されている。そうなると日本の安全保障にとって不安である。


 つまり日本全体の問題である。

 したがって日本人なら何処に住んでいようと賛否の意見を表明する権利がある。

 自分でも辺野古に行ったことがある(HP参照)けれど、反対運動をしている人には沖縄県内の人と沖縄県外の人と両方いて、これは日本全体の問題なのだから当たり前だ。こんなことを説明しないと解らない人は、ごく一部だろう。


 座り込みは、毎日のように警察に強制排出されている。

 ひろゆきに言わせると、これで座り込みは日数0になるわけだ。

 撮影は筆者。


 しかも西村博之という人は日本に住んでいない。

 普段はフランスに居るそうで、しかも商売の不祥事の責任を逃れるため資産隠しで莫大な賠償金を踏み倒していることでも有名である。

 そんな人が、日本の問題を語る資格があるのか疑問だが、少なくとも他人のしていることに対して揶揄したりデタラメ言ったりしているのは非常に不道徳である。

 

 そこで問題なのはマスメディアである。

 彼が個人的に非常識を述べているだけなら軽蔑するだけだが、こんな人をマスメディアが見識ある人であるかのように扱い、肩書を「実業家」としているのだから。マスメディアの所業は反社会的である。

 かつて『ナニワ金融道』と言う漫画の名作があって、その冒頭で金融業者が現実を指摘するセリフを言う。

 「日本では金持ちになりさえすれば総てが許される」

 これを体現しているのが「ひろゆき」とホリエモンこと堀江貴文と言う人だ。


 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年10月7日
  • 読了時間: 2分

 スピリチュアリズムで「祈禱師は低級霊の遊び相手」という。

 もちろん、インチキな祈禱師も横行しているが、中には本気でやっている人たちがいて、それは低級霊の遊び相手という意味だ。


 ちょぅど西村博之(ひろゆき)という人である。

 この人の場合はインターネット上で程度が低い人たちの遊び相手となっている。だから悪霊に憑かれたのとは異なる。

 だいたい悪霊が寄って来るのは精神的にそれなりの大物である。だから大人でも子供でも関係なく霊の格が高い人であり、そうでないと悪霊と言えるほどの者とは波長が合わない。


 ところが、霊格の低い人は低級霊と波長が合う。

 これと西村博之という人は同じである。例えばTwitterで彼のアカウントが権力の側から弱者を虐げる発信にハートマークを押す人たちは、権力者ではなく権勢に媚びる者であるから、他人様が真面目にやっていることを嘲笑・揶揄したり、その常套手段「藁人形論法」で論破のふりしたり、ということに便乗する。虚しい幻想の優越感を一瞬抱くだけだから、楽しいとしても錯覚である。


 つまり西村博之という人は祈禱師である。

 多くの祈禱師は自分が霊的に力を持っていると思い込んでいる。実際には低級霊の遊び相手なのだが。これはTwitterならフォロワーが多いけれど匿名の低劣なアカウントばかり相手にしているのと同じである。それを意識して受けようとして自分の発信も嫌らしくなってしまうけれど、それだけでは済まない。

 低級霊と波長が合うようになると、当然ながら寄って来られる。悪霊は他に災いをもたらすが、低級霊は自分の運気が悪くなる基である。そして災難に遭うようになる。



 だから祈禱師はだいたいが不可解な病気や事故によって死ぬものだ。

 おそらく西村博之という人やそれに類する人たちは、パソコンの画面を見ている間に体内ではおぞましい変化が起き、いずれ致命的になる。あるいは出かけたさい酷い偶然によって災難から逃れられなくなる。

 こういうことは、現実にある。不思議なことだが。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年9月24日
  • 読了時間: 2分

 受験産業のベネッセが、また顰蹙を買っている。

 それは、入試の面接について、ありもしない評価をことさらに喧伝していたことだった。学生がちょっと緊張して退出の挨拶がなってない部分があっただけのことを針小棒大に指摘して、あたかも相当の影響があるかのように見せる動画を公開し、受験生を迷わせていた。

 この程度のことで影響があるわけがなく、大学側では細かいマナーより訊きたいことがあるのだし、学生が緊張していることは割り引いて考える。


 国立大学は受験料が無用だ。

 それで入る気が無いけど受験する人がいるものだ。留学生など、力試しに受験してみて合格したけれど入らない人もいる。また、面接のさい動機を訊かれて「冷やかしに決まってるじゃん」と言い放った人もいたけれど、筆記試験の成績が良かったので合格だった。

 これが実態なのに、受験産業が無用な考査基準を捏造して商売しているのだ。


 面接は受験産業が商売に利用しようと規格化する悪意である。

 その前は、校長がエラソーにする自己満足のためのものだった。そもそも相手が校長だからと緊張する生徒はいないが、それなのに緊張する面接の練習のため校長が実施するという非現実である。つまり校長の空虚な自己満足であって生徒のためではない。

 そこで練習と称して下らないどうでもいい難癖をつけて悦に入っていたものだ。


 それを生徒のほうも解っている。

 だから「何年何組出席番号何番誰某」と言うところで、「出席番号」を今では永田町センセイになった女性のグルーブの真似して「会員番号」と言って校長をおちょくる女子が、かつていたものだ。



 ベネッセと生稲晃子の御陰で愉快な思い出が久しぶりに蘇ったのだった。

 
 
 
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