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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 3月19日
  • 読了時間: 2分

 オタクを自認する高橋裕行氏が呼びかけた反戦デモ。

 彼はスーツアクターのバイトもしたことがあるらしい。もとは、過日「石ノ森章太郎先生がご存命だったら高市政権を許さないと思う」というSNS投稿から大論争を巻き起こしたことだった。

 そのうえで、「石ノ森先生や手塚先生が今の日本政府を支持するとはとても思わない」とし「漫画やアニメや特撮を通して確実に反戦を学んだ」「今、日本が戦争へ向かおうとしている瀬戸際で先人達の意志を継ぎ、大きな声で戦争反対を叫ぶことは決して無意味ではないと思う」

 などと述べた。


 また「日本の80年間の平和の中で築かれた豊かな文化」とも。

 そして、これを「失わせるわけにはいかない」と。「僕らは軍事力ではなく、文化の力で世界に平和をもたらす。それこそが僕達を育ててくれた漫画やアニメ、特撮に対する恩返しではないだろうか。オタクの同志達よ。手を繋ごう。そして誰にはばかることなく平和を訴えよう」と呼びかけたのだ。

 もともとオタクにはネトウヨが目立つ。しかし、これは上辺しか見ていない人たちである。その発信の内容から容易に判る。



 ところで、過日亡くなった山際永三監督は特撮物も多く手掛けた。

 そういう子供むけをやるようになった事情の一つに刑事物が嫌いだったからだと言っていた。テレビの劇映画・テレビドラマには御三家の分野がある。時代劇と刑事ものと子ども向けである。時代劇は主に京都の撮影所で作っていたから、東京で仕事していたのでやらなかった。刑事ものは避けていた。残るは子ども向け。そういう事情がまずあったという。

 そして、特撮物も含めた子供向けはどんな内容であっても要するに「弱いものいじめは駄目」という主張なのに、刑事物は権力が正義という図式だから、ということだった。


 たしかに子供向けこそ倫理的だ。

 だから、子供向けのマンガ・アニメ・特撮を鑑賞していて、そのドラマに感動すれば、戦争反対になるのが自然なことであると充分に言える。

 だから高橋氏の呼びかけに賛同が多いのだろう。




 
 
 

 かつて自民党の中川雅治議員が、虐めを得意になって語った。

 それは2010年頃から自身のサイト内で掲載していた義家弘介衆議院議員・橋本聖子参議院議員(ともに自民)との対談記事「教育鼎談」というコンテンツ内にて、「中学時代は男子校で、クラスの悪ガキを中心に皆いつもふざけていて、小さくて可愛い同級生を全部脱がして、着ていた服を教室の窓から投げるようなことをよくやっていました」と書いていたことだった。

 これが、2015年8月になっていじめであるという批判を招いた。彼は毎日新聞の取材に対して「自分はやっていない。そういうことがあったのを見たということ。あっけらかんとしたもので、いじめとは思っていなかった」と弁解していた。



 このさい、あの菅野完氏が指摘していた。

 いじめは、この人達にとって普通のことだ。自民党は地方のボスの集まりだから。

 まったくそのとおりだ。それは東京のことであっても、古い土着の人達は地方のボスであり、それが祭りなどで地元の人として出てくると本性を発揮する。そういう人達が、例えば秋葉原の文化に対して文句を言っているし、世田谷が与太者の街だから「よたがや」と皮肉られてるのも同じことで、かつて「世田谷、耕せ」という歌(爆風スランプ)があったけれど、これは農地が宅地化してよく成金が住むようになる前のことを皮肉ったものだった。

 これは自分が六年くらい世田谷区に住んでいたので、地元の催し例えば無形文化財でもある伝統の「世田谷ボロ市」などで実際に接しているから解っている。


 菅野完という人は田舎の醜さを見事に指摘する。

 どうしてこのような指摘ができるのかは知らないが、彼は田舎について実に辛辣で適確なことを話す。そして最近では、高市首相が凄い田舎者であるから、それが良くて支持している人たちが多いことを指摘していた。

 こう彼は指摘する。田舎とは支配と被支配の人間関係しかなく、田舎に行けば行くほどそうなる。だから、石破首相や岸田首相は人を支配しようとしなかったので田舎者は頼りないと感じたが、高市首相はDVに観られるような田舎者の加虐をする側として支配しようとするから、支配されることに慣れきった田舎者たちは自分の首に鎖を付ける高市首相を頼もしいと感じるのだ。

 

 また、ファシストについても彼は指摘していた。

 これは戦争になった時が特にそうだが、そのさいファシストから少数派の者たちは指刺されて笑われ、罵声を浴びせられるが、なんと言われるのか。直ぐ思い浮かぶ「非国民」とか「アカ」とかではないし、「愛国心が無い」でもない。ではなんと言われるのか。

 「諦めろ」である。都合が悪いから迫害や弾圧をするのではなく、諦めさせるのが目的だ。これは田舎に行けば行くほど、そうなる。


 これは自分も体験している。

 親の事情で少年時代に東京から埼玉県に引っ越し、さらに山奥の方へ行ったことがあるけれど、そこでは地域でも学校でもまさに「諦めろ」の連続だった、地域の活動でも学校でも何か意欲を見せたり、良くないことを改善しようとすると、要するに「諦めろ」という趣旨のことを言われて、真面目にやっていることを嘲笑される。進学のための受験勉強でさえ、通っている学校では「諦めろ」であった。表向きは真面目に勉強しろと言うが、田舎の人が知らないことを勉強しようとしたり田舎の人が知らない職業に就きたいと言ったりすると頭から否定される。

 この調子が普段からなので、戦争についても同じことになるのだ。

 

 この田舎については他の人も、例えば宮台真司氏なども指摘していた。

 しかし菅野完氏のほうが実感のこもったことを言う。それについて自分は、田舎を目の当たりにして筆舌に尽くしがたい体験を少年時代にしているから、身を以て解かるのだ。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2月6日
  • 読了時間: 2分

 喪服を廃棄したら葬式が有って困ったという人の話がある。

 また買えば良いと思っていたら、この物価高の影響があり、しかも縫製がなってないなど品質も悪い。こんなことがあるから後悔しないよう「断捨離」とか「捨て活」とかいうものには慎重になるべきだと言い出す人たちがいる。

 そんなことは一切ないはずだ。矛盾である。


 そもそも断捨離や捨て活は、用が無いものを処分することだ。

 だから、喪服を捨てたのなら葬式があっても行かないはずだ。葬式に行く可能性があるなら、喪服は所持しておくはずだから。

 つまり、必要になったらまた買えばいいから処分するのではなく、もう必要がないと決意したから処分したはずである。その決意が揺らいで買おうとして、高いとか品質が悪いとか不満がでる。



 葬式に行かなければ香典も節約できる。

 冠婚葬祭は全部そうである。そんなものに、着る物や現金の出費は馬鹿げている。なにより、時間がもったいない。有限である人生の時間を退屈な付き合いに浪費するのは、生命に対する冒涜でさえある。 

 それに、コロナウイルス騒動で、みんな悟ったはずだ。今まで、なんとよけいな付き合いを強いられていたのか、と。この人生の浪費を、やっとやめられるようになったのだ。


 物価高は政府の責任である。

 それが指摘されるので、自民党政権は不都合なことを言う国民を弾圧すると言っている。そういうファッショが好きな日本国民は結構な割合だから、内閣が支持されている。

 その場合、絶対に経済は悪化するのだから喪服や香典に出費してはいけないし、権力と闘ったり逃げたりするには身軽なほうがいい。

 そのための断捨離と捨て活とすら言いうる。物を捨て、人付き合いを捨て、ファッショと闘うため精神と身体の自由を獲得するべきである。義理を欠いてはならないという脅迫観念を持ち、生活が苦しいのに冠婚葬祭に出費する、なんて人が多くて自民党政権が続いているのだから。

 
 
 
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