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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年12月2日
  • 読了時間: 2分

 近所の開業医に心電図をとって診てもらった。

 まったく異常なしということだった。なんでこんなことをしたかというと、前に不整脈が酷くて心電図にも表れていたからだった。あの時は本気で、もうじき死ぬのか、すると悦ぶというより安堵する奴らが何人かいるなあと思った。

 ところが、最近は何度も心電図をとって、まったく異常なしである。



 これについて、その開業医は言った。

 そういうのは、よく、ストレスが原因になっている。それは確かにあった。ひどかった。その環境が変わったから、不整脈も起きない。また、あの時は、あのひどい状態でよく生きていたものだと不思議なくらいだったから、今なんか絶対に大丈夫だ。


 この開業医は、かなりの高齢だが仕事はしっかりしていて長いこと医師をやってきた人だ。

 その息子が診療所で色々な機器を扱っている。それよりもっと年下の若い医師が近所で心臓を専門にした診療所をやっている。この人に、前のひどい状態の時、カテーテルで治せると言われた。その小さい診療所ではできないから、大きな病院で専門医が実施すればリスクは極めて少ないと言う。


 この話を、高齢の開業医に話した。

 そうしたら、カテーテルは必要なくて話が大げさだと指摘された。そして、その近所の若い開業医が、自分の診療所ではできないから大きな病院でと言うさい、紹介状を書こうかと言い、さらに文章料金は何千円と言うので要らないと断ったことを伝えたら、高齢の開業医は笑っていた。

 あれは開業したばかりだったからだろう。それで、若い開業医は、紹介状でもなんでも稼ごうということだったはずだ。それが丸判りだから、既に長くやっている開業医は思わず笑ってしまったのだろう。


 とにかく、もう心臓は平気になり、まさに「憎まれっ子世に憚る」である。


 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年11月29日
  • 読了時間: 2分

 本に付いている帯は、選挙で候補者が付けているタスキのようなものだと言われる。

 だから、選挙のあと議員がタスキを付けてないのと同じことで、本を買った後に帯を付けている意味は無い。あくまで宣伝だから。



 それで、買った本から直ちに帯を取る人がいる。

 すると昔は、落丁などの不良品があったさい、交換のさい書店で嫌がられることがあったそうだ。今は製本技術の進歩で落丁は無くなったから、帯を取っておく意味は古本屋に売るためだけだろう。

 

 そもそも帯が必要かという問題もある。

 よく、帯の宣伝文句に釣られて本を購入したが、読んだら内容が思っていたのと違っていたからガッカリしたという人がいる。そんなことがあるから、帯の宣伝なんて当てにしないで購入の判断をするという人もいる。

 それで出版社で最初から帯を止めてしまったりもする。


 あと、出版社のセンスが悪い場合もある。

 これが内容にそぐわないけれど売れるというならともかく、どう考えても不適切であるため売れ行きに悪影響していることも少なくないのだ。その意味でも、本の帯はとっておく価値がない。


 前に、帯の宣伝文句を知り合いのコピーライターに依頼した。

 そのさい、料金がよけいにかかるといって出版社が難色を示したから、こちらで料金を負担して払ったのだが、その出来上がったコピーを出版社が勝手に改竄してしまい、それで意味が変になってしまったのでコピーライターが怒り、こちらは金を払ったうえ恥をかかされ散々だった、ということがあった。

 なのに、改竄の張本人である出版社の経営者は、書き換えは正しいと言って譲らなかった。もっと大手の出版社で仕事をしているコピーライターなのに、それより遥かに零細な出版社の経営者が、自分の方こそ正しいと言う。他人の仕事を後から勝手に弄って得意がるというのは創造性を欠いた思い上がりだし、委託したくなければ拒否し、任せたなら信頼する、というのが仕切る役割の人にとって鉄則のはずだ。それを守れない人は、そのうち必ず大きな失敗をするものだ。

 それで迷わず絶交したのだった。


 過日、自宅の本棚で、付けたままにしていた本の帯を外して捨てた。

 その重量を図ってみたら、大した量でないけれど何百グラムにもなった。棚や床の負担というほどではないが、量が多くなれば無駄に重いので、古本屋に売る気がないなら帯なんて捨ててしまうに限る。こんな習慣、早く無くなったら良い。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年11月14日
  • 読了時間: 4分

更新日:2021年11月18日

 過日、同じ高校の同級生で最も仲良くしていた男が、その高校当時に共通して仲良くしていた同級生の思い出を語った。

 これを聞いて思い出したことがいくつかある。


 その共通して仲良くしていた同級生とは、高校2年の時に同じ組だった男である。彼は卒業した翌年に交通事故で死亡した。享年19歳であった。

 この直後、偶然にセブンイレブンで、店員のアルバイトをしている同じ組だった女とバッタリ会った。空腹の間に合わせに弁当を買ったところカウンター挟んで互いに「あれ」「あら」という具合になった。そして弁当を電子レンジで温めている時に、彼女が「K君、死んじゃったのね」と言うので「その事故、新聞の地方版に載っていた」と。その話題については、これ以上の言葉を交わさず、ただ残念という雰囲気であった。

 

 あの時、最も仲良くしていた男は、死んだKと自宅も近かったので葬儀にも出た。

 その時の話を彼から聞いた。それによると、他の同級生から電話で誘いがあり、ちょっと出かけて来ると言って行き、それが最後だったと母親が言っていたそうだ。そのあと警察から連絡があり、心配して病院に会いに行くつもりが、そうではなく安置室に見に行くことになってしまった。即死だったのだ。

 この話をしているお母さんが不憫だったと、その同級生は言っていた。


 その後、さらに他の同級生からも話を聞いた。

 この同級生も高2の時に同じ組だった男だ。彼は田舎者で見るからにダサイ男である。彼からは卒業後に、あのコンビニ店でバイトしていた女について、何度か言われた。「彼女は高2の同じ組だった当時から、おまえに好意を見せていたのに、なんで付き合わなかったのか」と。

 それはなぜかというと、こちらは他の同級生で相思相愛の女がいたからだ。中学から同じだった。他の男からけっこう人気があるので妬まれそうだったから隠していただけ。それくらいの水準で、少なくともそのダサイ同級生の男とお似合いの1学年下のダサイ彼女とは月と鼈だった。しかし在校時はもちろん卒業後も言うわけにいかなかったというわけだ。ただ、こちらの彼女とは卒業後に行く道が違って疎遠になったが。


 そんな今だから言える話はともかく、そのダサイ同級生は、Kを誘った方の同級生と卒業後も付き合いがあったので、それを介して話を聞いたというのが本旨である。

 その事故を起こした同級生は、Kを誘って親の所有する自家用車を運転して出かけた。そして、運転免許を取得したばかりで慣れていないのに制限速度を遥かに超えて飛ばし、運転を誤って衝突事故を起こした。これで同乗していたKは即死だった。運転していた方は、重症を負ってしばらく入院しなければならなかったが命は助かった。そして、よく運転免許証の講習で見せられる映画とは違ったという。

 そうした映画は、だいたい無謀運転して事故った男が、包帯だらけの姿で死んだ同乗者の葬式に行くけれど、遺族から参列を拒否されて香典も突き返され、惨めに帰るという寸劇である。



 ところが、その事故を起こした同級生は、自分で誘い事故って死なせた同級生のことなど意に介していない。これに、見舞いに行ったダサイ同級生は大いに呆れたそうだ。

 その両親は、死んだKの両親に謝りに行ったけれど、そんなことバカ息子の知ったことではない。病室で親に向かって、腹が減ったとか退屈だとか言ったうえで「タイ焼きじゃねえよ。タコ焼きが食いたいんだってば」「買ってこいってのはヤングジャンプじゃなく少年ジャンプだっての」など、バカ丸出しの我が儘ぶりであった。

 もしかして、事故の時に頭をぶつけてバカになってしまったのではないかと訊いたら「いや、あいつは元々あんな性格だよ。たまたま事故で露呈しただけだろう」とダサイ同級生は言った。


 それで、最も仲良くしていた同級生は、Kについて不可解そうに言った。

 「彼はとてもしっかりした人だったのに、なんであんな人と卒業後も付き合っていたんだろう」と。たしかに謎である。

 とにかく、悪い同級生との腐れ縁は切るべきではあること確実だ。


 
 
 
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