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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年11月20日
  • 読了時間: 3分

 『こどもしょくどう』という映画がある。

 食堂を営む夫妻(常盤貴子と吉岡秀隆)の小学生の息子が、同じ学校の同級生を毎日のように自宅に連れてきて一緒に食事をしている。その同級生は事情あって自宅で満足に食事がとれない。母子家庭で、派手な身なりの母親は自宅のアパート一室に男性を連れ込むことしばしば、という事情であった。


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 そして息子はスーパーで万引きをする女の子を目撃する。

 同じくらいの学年だ。店主に見つかってしまうが、着たきりで洗濯もしてない服装のため店主の妻が同情して、見逃してやるからもうするなと注意し、パンを一つ恵んでやる。夫に甘いと言われが、あの恰好では何か事情があるので気の毒だと妻は言う。


 その女の子は小さい妹と一緒に車中泊していた。

 父親が一緒だったけれど、そのあと行方不明になる。これを知った息子は差し入れをしてやるが、そのあと姉妹を自宅に招き、彼女たちも同級生と一緒に食事をする。姉妹は、前に親子四人で旅行してリゾートホテルに宿泊した楽しい思い出を語る。それが何でこんなことになってしまったのか。彼の両親は心配しながら、公的機関に相談するべきかなど悩んで議論にもなる。


 このことをきっかけに、夫妻の営む食堂は、店頭に小学生以下は無料という貼り紙をして、すると身なりからしていかにも事情があるという感じの小学生たちが来るようになる。


 こども食堂は実際にある。

 そこで自衛隊が勧誘していたので露骨だと言われた。自衛隊なら三食が保証されていると謳うから。そもそも自衛隊の勧誘は、大型免許が取得できるなどスキルが身に付くというものだった。それが三度の飯になってしまった。戦ってもらう代わりに飯を食わせるという『七人の侍』である。しかし貧しい農村だから侍に米の飯を差し出したので、それを国がやるということは日本が貧しい農村と同じになってしまったわけだ。


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 また、自衛隊の食事は御代わりできないらしい。

 食事に事欠く子供に、食べられるだけでありがたく思え、御代わりなんて生意気だ、というのでは『オリバーツイスト』の孤児院である。米軍では精をつけるため食事はいくら食べても良いらしい。「腹が減っては戦はできない」から。


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 これでは自衛隊が外敵と戦えない以前に叛乱がおきかねない。

 まるで『戦艦ポチョムキン』みたいに食い物の恨みで『亡国のイージス』みたいなことが起きる。


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 こうなるのも、今は親の七光りで苦労知らず世間知らずの自民党議員が外国のカルト団体である統一協会と癒着して日本国民を苦しめているからだ。

 その被害に遭った家庭の出身者である元自衛官が安倍晋三を射殺した。まだ裁判が開かれないというのは、よほど後ろめたいことが政府の側にあるからだろう。


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 ここまで日本は落ちぶれたのだ。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年11月12日
  • 読了時間: 2分

 地上波放送で議論の『ゴジラ-1.0』は科学文明批判が欠如していたという話題だった。

 それについては先日とりあげた通りである。


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 この映画の結末について、こんな解釈がある。

 あの、死んでいないわけがない女性が生きていて、負傷し入院している。それはゴジラの細胞によって再生されたからで、ゴジラに止めを刺した特攻隊崩れの男性も戦いのなかで撒かれたゴジラの細胞を浴びている、という説である。

 こう解釈できるほのめかしがあるうえ、そうでもないとあり得ない奇跡の生存だから。正しいかもしれない。


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 そうなるとゴジラではなく『鯨神』である。

 『鯨神』は、官能小説で知られる宇能鴻一郎が小説家としての初期に純文学で受賞した小説を原作とした映画である。巨大で狂暴な鯨を、西洋人の宣教師は「悪魔」と言うが、日本人は恐ろしいけれど神であると考える。それを退治するのに命を賭けて、自然を克服したのではなく、鯨神との戦いで重症を負った漁師は鯨神を殺した自分は死んでから自分が鯨神になると言う。

 このように東洋的な宗教観に基づいていて、ここへ伊福部昭の音楽は民俗的な響きを轟かせる、というわけである。


 こうなると科学文明批判ではなくなる。

 そもそもゴジラの一作目は明確に文明批判が主題であり、観た三島由紀夫もそれを言っていた。ゲテモノ映画だと言う人がマスコミに多かった中で、三島由紀夫は評価していた。ちなみにゴジラが最初に出現した架空の島は、三島由紀夫が原作の『潮騒』と同じ時期に同じロケ地であった。だから三島由紀夫は観たのだろう。

 ところが宗教的になると、放射能とは関係がなくなる。



 マーヴェルのコミックと同じである。

 伝説の生物ゴジラは恐竜の生き残りのようだったが、太平洋で核実験が繰り返された後に出現すると、巨大化していて背鰭が原子炉のように青光りし、熱線を吐くと核爆発のようになる。

 よく、マーヴェル社のコミックで主役となる突然変異のヒーローと同じだ。材料にしているだけで文明批判は皆無である。

 これがハリウッド映画ならともかく、日本人の手による映画だから、時代が変わったというだけでなく監督の姿勢に批判が起きたのも当然のことだろう。

 

  

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年11月9日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年11月9日

 スタイロンの小説『ソフィーの選択』を読了した。

 これは前に読みかけて放置していた。それを急に思い立ち最後まで読むことにした。随分と長い時間が経過していた。とても長いので、しんどかった。

 また、物語の進展のわりに説明が多いので、こういう小説は読むのが大変である。このような小説の方が好きな人もいるらしいが。


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 映画化は既に観ていた。

 八十年代の公開で、ソフィー役はメリルストリープだった。小説とは違った感じである。もちろん物語が小説から端折ってあるから、その影響もあるだろう。語り部の青年と一緒に海へ行ったソフィーは、泳ぐと言って全裸になって見せるから動揺させられるが、そのあと泳ぐソフィーが死ぬつもりで沖に進むから止めるという部分は映画に無い。


 この映画は公開当時に映画館に行かなかった。

 音楽は『追憶』などの映画音楽で知られるマービンハムリッシュで、その曲をFM放送で聴いて印象的だったから、のちにテレビで放送されたさい観た。そのあと新聞のテレビ欄の投書に、カットが酷いという苦情が載っていた。観ていない友達に奨めたのに、と。

 それでビデオで再見した。テレビ放送でカットされるなら他にもっと酷いのがいくらでもあるという感想であった。しかし映画館で観て未見の友に奨めた人は、ガッカリかもしれない。


 そして今では昔と変わったと思ったことがある。

 自分で映画の製作・脚本・監督をするなら『ソフィーの選択』のような映画がやりたい。スタイロンの小説やメリルストリープの映画が特に好きではないが、このような内容の物語を一生懸命に描きたいと思う。

 かつては、やるなら活劇や特撮やコメディーやホラーがいいと思っていたけれど。 

 これは、自分がやらなくても、もっと思い入れが強い人たちがやっている、という外的要因もあるが、それ以上に自分の中で何か変わったという内的要因がある。

 
 
 
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