top of page

​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年7月16日
  • 読了時間: 2分

 病原体が蔓延して危機に陥る物語では、天才的な学者が熱心に研究したうえ偶然も重なり解決方法が解りパンデミックは収束するが、これは非現実的であるということがコロナウイルスによる新型肺炎で理解できる。

 今、政府が不手際ばかりしているため行き渡らないことから逆にというか過信されているワクチンにしても、できたばかりで効果には不明なことがある。当然のことで、長い時間をかけて治験しなければ解らないものだ。


 これがハリウッド映画では、必ずハッピーエンドにしないといけないので出来すぎの大団円にもっていくが、非ハリウッドでは違い、解決できるはずなのに政治的な思惑や事情から隠蔽されるという筋書きになるし、その方がリアリティーありとなる。

 どちらにしても、天才的な医師や学者が活躍するというより偶然の結果として対応策か判明するけれど、そもそも天才とは偶然の発見をする人である。アルキメデスが風呂に入った時に閃いたとか、ニュートンがリンゴの木になる実から閃いたとか。

 

 例えばマイケル=クライトンの『アンドロメダ病原体』でも偶然の発見で病原体を退治する方法を発見するし、小松左京の『復活の日』では誤作動による核爆発でウイルスの遺伝子が変異して無毒化する。

 ちゃんと研究して解決のはずが駄目だった話もある。アメリカ映画だがハリウッド映画ではない『クレージーズ』(ゾンビ映画の監督によるパニック映画)では、細菌兵器の治療薬を発見した医師がアルキメデスのように「見つけたぞ」と狂喜して研究室から飛び出してしまい、感染者と間違えられて警備兵に監禁されてしまって一巻の終わり、という怖い結末であった。


 また、怖い結末といえばヨーロッパの合作映画『カサンドラクロス』では、生物兵器に汚染された列車の乗客たちが偶然の発見による治療によって次々と回復したけれど、事件の発覚を恐れた軍は列車を転覆させて乗っている人たちを皆殺しにしようとする。列車を止めろと主人公たちが叫んでも兵士が銃で威嚇し、破滅へと列車は突き進む。

 これと、今のオリンピックに突き進む日本は酷似している。


ree

 
 
 

 ベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』を監督したレニ-リーフェンシュタールは、他にナチの党大会の記録『意志の勝利』が有名だが、彼女は記録映画を作る方法について「撮影した映像を編集するさい、何にも始まりと終わりがあるから、それだけは省かないで、あとは最も盛り上がったものを間に挟む」と語っていた。


ree

 おそらく、東京オリンピックは、開会式と閉会式さえ実施すれば成功したことにしてしまうだろう、と言われている。

あとは何が起きようと、間に盛り上がったように見えるものを挟めばいい。


前の東京オリンピックでは黒澤明が断ったので市川崑が撮り「記録か芸術か」と言われたが、この退屈な映画をテレビで見て大変に気に入りビデオを買った知人がいた。このように面白いと思った人もいるので、それをとやかく言っても仕方ない。

 今度の東京オリンピックは、オカルト映画の河瀨直美が取るそうで、それを張り切っているからコロナウイルス新型肺炎対策があろうと中止して欲しくないと言っている。

 あの監督の一連の映画はオカルトなのかと言う人は、オカルト映画はホラー映画だと思っているから言うのだろう。けれどホラー映画ではないオカルト映画もあり、そのいい例が河瀨直美監督作品である。

だから前に言ったけれど、元総理大臣で会長だった人を主人公にして『殯の森喜朗』という題名にでもしたらいいのだ。


 
 
 

更新日:2021年6月23日

 アマチュアの映像作家による短編映画が、機器の発達によって昔より今は盛んになったかというと、逆に衰退している。

 この話題から、SNSを通じて機器と映像作品の問題になったので、自分でも直接に知っていること語ろうと思う。


 かつて、家庭用の動画カメラは8ミリフィルムが主流だった。ネガが無いので複製は簡単ではないが、その代わり手軽に撮影できるという利便性があった。

 これは旅行や家族を撮影するためだけでなく、ドラマやドキュメンタリーの短編映画製作にも使用された。これがホームビデオの普及により衰退したうえ絶滅も同然の状態になる。


 これらは、どう関係しているのか。

 まず旅行や家族の撮影は、長時間の撮影が可能で現像不要のホームビデオの方が便利である。また初期は大きくて重たかったビデオカメラも、そのうち技術の進歩により片手で軽々と扱えるものが出る。こうなると、フィルムのムービーカメラは専ら芸術作品が使用目的になってくる。

 そして、全体的な売り上げが減って利益が少なくなる。これまでカメラやフィルムのメーカーが、その利益からアマチュア映像製作のコンテストや主催団体に財政援助していたけれど、厳しくなって遂に打ち切りでコンテストの中止や団体の解散という事態になる。


ree

 こうして、80年代から、ホームビデオの普及に伴いアマチュア映像作家と小型映画の作品発表の場が消えていく。

 また、いくらホームビデオが普及しても、画質や音質などから芸術作品には向いていなかったが、そのうち技術的な進歩があって芸術作品が製作できそうでも、発表したり競い合ったりということが、かつてのようにはならなかった。


 なぜなら、まずテレビ番組でとりあげる一般家庭のビデオは、偶然に撮れたハプニングを面白がるものが主流であったから。

 次に、映像作家を目指す若者むけのテレビ番組は、周知のとおり前衛的というのではなく奇をてらっていて悪ふざけのようにしか見えない作品が高評価される。そんなものしか応募がないのかと思い真面目な作品や芸術的な作品を送ると、必ず、事前審査で不採用になったという通知とともに返送されてくる。

 これは、カメラやフィルムのメーカーではなくテレビ局のすることだからだ。機器の製造業者なら、それを上手に利用して高い水準の作品が世に出ることを歓迎するが、テレビ局は違う。軽い娯楽番組と定義していることに加え、優秀なアマチュア映像は自分たちの地位を脅かすので黙殺する。


 こういう関連があった。

 そして、機器の進歩と大衆化によってアマチュアリズムは逆に衰退したのだった。



 
 
 
  • twitter

©2020 by 井上靜。Wix.com で作成されました。

bottom of page