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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 1月20日
  • 読了時間: 2分

 アメリカの映画監督ヤノット=シュワルツが死去。

 この人がよく知られるようになったのは『ジョーズ2』からだった。公開当時のプログラムによると、シュワルツ監督は『ジョーズ』なんてメガヒット作の続編の監督を依頼されて、信じられなかったそうだ。それくらい彼は苦労人だった。



 彼は結構な数の映画を監督していた。 

 その中には結構有名な作品もあった。しかし、だいたい彼が本当にやりたい作品とは言えなかったようだ。『燃える昆虫軍団』のようなキワモノのホラー映画もあって、こういう映画が好きな人たちの間では評価されていた。

 しかし、シュワルツが尊敬していたのは、ワイラー、キャプラ、カザン、フォード、などの巨匠たちであった。そうした巨匠たちのような格調高い作風の映画を撮ることができなかったのだ。


 『ジョーズ2』は一応の成功を納めた。

 もちろん。大ヒットした前作には及ばない出来というのが一般的な評価であった。しかし、これは仕方ない。それでもなんとか監督は仕上げたから、それなりに成功した。

 このおかげで、シュワルツは前より発言力を持つことが出来たという。


 『スーパーガール』なんてのもあった。

 これは『スーパーマン』から派生した「スピンオフ作品」だから、続編と同じで話題になることは確実でも、前の作品と比較されて「二匹目のドジョウ」と扱下ろされることも同じであること確実だったから、やりたがる監督は中々いなかったはずだ。

 それで『ジョーズ2』を撮ったシュワルツ監督なら、ということで依頼したのだろう。そう製作者が言っていたり企画書に記述したりの場面が目に浮かぶようだ。


 何か仕事をするさい、こういうことが常にある。それについて解かり易いヤノット=シュワルツ監督であったが、ついに亡くなったということだ。

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 1月19日
  • 読了時間: 2分

更新日:1月19日

 デビット=リンチ監督が亡くなった。

 その訃報で、よく『エレファントマン』『ツインピークス』の監督が死去と見出しになっていた。出世作とヒット作だったからだ。

 かつて『エレファントマン』が話題になったあと、その前の未公開作『イレイザーヘッド』が公開されて、その不気味さと不条理さに、この監督は何を考えているのかと言った人が少なくなかった。しかし、そこに何とも言えない悲劇性と喜劇性が混ざったような切なさがあった。




 大作『デューン砂の惑星』は雇われての監督作だった。

 もちろんリンチ監督らしい気持ち悪い描写もあった。最近のリメイクの方が原作の雰囲気に近い。

 そのあと同じ主演者で『ブルーベルベット』を作り、これは傑作と言われた。

 そしてまた同じ主演者で連続テレビドラマ『ツインピークス』を作る。


 『ツインピークス』の放送が目玉商品となりwowwowが経営起動に乗ったといわれた。

 また、地上波放送のさい、これをネタにして同じ出演者をドラマと同じ役柄で出すCМも製作されて放送された。今思うと、それだけ当時の日本には外貨があったということだ。「バブル」の直後という時期である。


 『ワイルドアットハート』は上手くいったと語っていた。

 どういう経緯か、当時の『朝日ジャーナル』でインタビューに答えたリンチ監督は、上手くいったので「天にも昇る気持ち」と言っていた。

 たしかに、最初から最後まで順調という感じの好調な映画だった。


 ローラパーマーは学園祭の女王の美少女だったけど、内面や家庭などから、ある意味でフリークだったので、エレファントマンと同じように死は救済だった、という切ない話であってミステリーでもサスペンスでもないと『ツインピークス』を観ながら感じた思い出がある。

 『ツインピークス』の完結編『ローラパーマー最後の七日間』は、『エレファントマン』と同じで死は救済という結末だったが、そういうのは作品全体を見ていると一部のものであった。


 作品を語っていたら、まだまだ話はあるのだが、それより、話題になった当時のことを訃報によって思い出すことが多い監督である。 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年12月12日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年12月12日

 亡くなった山際永三監督は日本映画監督協会理事だった。

 また、冤罪の問題など人権擁護運動にも熱心だった。反権力の人だが、白樺派の志賀直哉と親戚で、学歴は麻布高校から慶応大学、部活はテニス部だった。よくあることではある。反対に貧困家庭の出身者が権力に擦り寄ることもよくあることだ。

 あのとき、司法の問題を取り上げた『それでもボクはやってない』を撮って話題だった周防正行監督に、この映画を褒めていた山際永三監督は、日本映画監督協会へ誘ったが入ってもらえなかったと言っていた。これを機会あって周防監督に何故かと訊いたら「崔洋一が嫌いだから」とキッパリ。当時の理事長だったが、大島渚監督が理事長だったときは、おなじことを言う監督がいっぱいいたらしい。あの人は徒党を組むので嫌う人がいた。



 大島渚監督の晩年、日本映画監督協会の創立記念日式典があった。

 そこへ配偶者の小山明子さんに付き添われて大島渚監督は車椅子に乗って姿を見せていた。この一方で、こちらは山際永三監督から「知り合いだ」と言ってもらって、一緒に実行委員をしていた杉井ギサブロー監督に話しかけていた。これを後に雑誌記事にしている。

 これはホテルの広間で立食パーティーの形だったが、食べるものに目もくれないドレスアップした美女たちが「よろしくお願いいたします」と名刺を配っていた。新人の女優たちで、コネを使って監督と製作者が一堂に会する場に売り込みに来ていたのだ。

 そういうところだから、一緒に来たがった女性がいた。ちょっと付き合っていた女性だった。彼女は容姿端麗で脚本も書くからという自信過剰だった。それは別にいい。


 その前から山際永三監督とは人権擁護運動で一緒だった。

 ところが、彼女は「人権擁護運動なんて貧乏くさい」と、ひどいことを言う。それでいてコネだけは利用しようとした。

 これに私の義理の姉が言った。「そんなに美人だったのぉ」「そんな所に連れていて通用したのぉ」

 それで一緒に写った写真を見せたら「まあ、パッと華やかな感じではあるね」としながら「へッ、私の方が綺麗だな」と言った。

 どちらも実に自信過剰であった。


 山際永三監督は残念だが老衰だったので仕方ないともいえる。

 しかし義理の姉は病気で早死にだった。中山美穂の年齢にもなる前だった。いわゆる美人薄命である。一方、その図々しい彼女は、製作者や監督に売り込むことができず『ラ・ラ・ランド』みたいに自作を演じていた。そのあとのことは知らない。

 とにかく、寂しいことの連続である。


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