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​炬火 Die Fackel 

 フィンランドのアキ-カウリスマキ監督の『希望のかなた』に難民問題が描かれている。

 いま日本の政府が難民に対して冷淡なだけでなく、外国人の研修生に非人道的な扱いをして非難されても日本の政府は無反省である。それとは違いフィンランドは人権に配慮している国であると誤解している人が日本には少なくない。

 それが『希望のかなた』でも告発されていた。主人公が博打で得た金をつぎこんで寿司屋を経営しはじめ変な日本料理店にしてしまい失敗するのは笑えるが、話の中心はシリア内戦の難民問題であり笑ってはいられない話だ。


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 シリアの内戦で家族を失った男性が、たまたまフィンランドの首都ヘルシンキに流れ着く。

 その国際的な評判からフィンランドは優しい国かと思ったら実態は大違い。家族を殺したのが政府側か叛乱側なのかダーイッシュ(イスラム国)なのかは不明だが、命からがら脱出したと言って難民申請するが、あっさりと却下されてしまう。

 フィンランドのテレビはシリアの内戦について報じるさい、支援を要請されたロシア軍が大型兵器を使用したので被害が拡大していると非難していた。ところが役所では、差し迫った危険などシリアに無いから帰ればいいので難民とは認めないと言われる。

 マスメディアが嘘を放送しているのか。そうでなければ面倒臭いから受け容れたくないだけということになる。どちらにしてもひどい話である。


 しかも排外主義者たちが暴力をふるっている。

 まったくネオナチとしか言いようがない恰好をしてガラの悪い人相と態度である。難民申請を却下されたシリア人を見て、外国から来た邪魔者だからと集団で襲い掛かる。

 このカウリスマキ監督はイギリスのケン-ローチ監督と親交があってスタンスが合うらしい。それで社会派の内容になるが、一方ギリシア出身でフランスさらにハリウッドで活躍してきた社会派コスタカブラス監督が得意なポリティカルサスペンスではなく、ほのぼのとした調子で社会の弱者に目向けることで、カウリスマキとローチは共通している。


 とにかく、難民などで日本がいくら酷いからといっても、外国を美化しては駄目だということだろう。

 
 
 

更新日:2023年3月29日

 『ひまわり』が、去年、再上映された。

 ウクライナでロケしたことも時勢から話題である。地理学に出て来るが、ひまわり畑の黒い土が映像にハッキリ映っている。戦争で行方不明になった夫を探しに行くヒロインは「スターリンが死んで政治が変わったと言われている」から探しに行けると、劇中で言う。演じたソフィア-ローレンはムッソリーニと親戚である。

 

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 『ドクトルジバゴ』のラーラはソフィア-ローレンが候補だった。

 ところが、製作者はローレンで決まりだと思っていたけれど、監督のデビッド-リーンが反対した。ローレンは長身で大柄だからイメージに合わないと言って。リーンとしてはラーラは小柄な女性のイメージだった。

 この『ドクトルジバゴ』は公開当時ヒットしたけれど批評家から「壮大なソープオペラ(昼メロドラマ)だと酷評されてもいた。


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 『ドクトルジバゴ』は『風と共に去りぬ』と内容が同じだ。

 内乱の中でロマンスや三角関係があり、スカーレットがラーラで、バトラーがコマロフスキー(映画ではロッド-スタイガー)である。ただ、ラーラは貞操を奪ったコマロフスキーを銃撃して負傷させるが。

 スカーレットは北軍の脱走兵を射殺する。この場面で、今は知らないが少し前まで米国南部の映画館で上映されているさい観客席から拍手喝采なので、観光客など外国人はビックリしたそうだ。そして、だから『イージーライダー』のようなことになるのかと納得する。


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 『ドクトルジバゴ』の原作はノーベル文学賞に選ばれる。

 だが、授賞式に行ったきり締め出されて追放になりそうだと恐れたパステルナークは辞退した。革命の綺麗ごとでない部分もあって、そんな悪く描いてはいないけれど当時の事情から神経質だった当局が、しかも自分の体験に基づく不倫と共に描いたのでケシカランということだった。

 それで発表できず、それでイタリアで出版と映画化(脚本・監督は『アラビアのロレンス』と同じでイギリス人だが)であった。

 ということで、明らかにノーベル賞は冷戦時代の当てつけだった。そうでもないと選ばれるはずがないハーレクイン小説である。


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 グルジアはジョージアと英語読みにしている。

 だから米国のジョージア州と紛らわしいが、ロシアから離れたいという人たちの意図だった。

 スターリンはグルジアの出身だった。内ゲバで敗れたトロツキーはウクライナの出身である。ロシアではなくても「♪Интернационал(インターナショナル)~」だから良いのだ。

 かつてソビエト連邦の時は、そのやり方がどうかは別にして、総てそれぞれの民族と共和国と自治区の一つということだったけれど、ロシア連邦になり独立した所もあって、そこで多数派と少数派が出来たことが、今もめている原因だ。


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  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2023年3月28日
  • 読了時間: 2分

 ゴジラや仮面ライダーの「シン~」の映画は老人食という指摘がある。

 高齢者の弱った歯に合うようグズグズに煮込んで出す食事のようなもので、食べ慣れたものしか受け付けない世代に合わせているような作りだからだ。


 これは30年以上前の『ゴジラVSキングギドラ』の当時、既に言われていた。

 昔からのファンは「久しぶりに音楽が伊福部昭」と喜んだけど、初めて見た若い人たちは「なんで現代の話なのに音楽は古臭い時代劇ふうなのか」と言っていた。

 さらに『シン・ゴジラ』では伊福部昭の音楽を古い音源から流用していて、しかも演奏失敗部分に効果音を被せていない。

 これはノスタルジーの作品だから、一般的な感覚では不可解ということだ。プロレスを見慣れた人にとっては、ロープに投げられたら、ここは16文キック、ここはラリア―ト、というのと同じなのだ。


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 また、そうしたゴジラ映画では嘘が描かれている。

 『ゴジラ』一作目で、核実験の影響について隠蔽を主張する与党ないし与党でなくても保守系らしい議員に猛反発する野党らしい女性議員が描かれているけれど、そういう描写は『シン・ゴジラ』には無い。

 後の『三大怪獣地球最大の決戦』では、対策会議で自衛隊の幹部が責任逃れでのらりくらり答弁するから議員が怒る場面がある。自衛隊は下っ端が真面で上層部は保身ばかりが実態だと、元自衛官の話でも自分が会った人からの認識でも共通しているし、そうなる構造があるのだ。

 ところが『シン・ゴジラ』で政府も官僚も自衛隊も噓の描写で徹底的に美化されているわけだ。


 かつてアニメの第一線で活躍する安彦良和が指摘していた。

 それは、アニメ映画のリアリズム追及で、もっとも世俗的で陳腐な認識に基づいているだけなのをリアリティと取り違えてシリアスになったと勘違いした作り手の問題だった。

 このことが、アニメ出身だけどCGの御陰で実写と特撮の映画に進出した人にもあてはまるのではないか。


 しかし、老人でも食べられる馴染みの食事ということで、口に合う人がいるのなら仕方ないだろう。

 そして、お父さんにお付き合いの子供は、親孝行で合わせて見せる。



 
 
 
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