top of page

​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2023年11月21日
  • 読了時間: 2分

 近所の看板が空いていた。

 そこに広告を募集していると表示がしてある。こういう看板は商業的な宣伝であるものだが、そうでないものが時々あって、金のために引き受ける業者もあれば、金を払われても断る場合もある。



 『スリービルボード』という映画が話題だった。

 これは、アメリカの田舎町で、娘を通り魔に殺害された女性が、進展しない捜査に業を煮やして、道路沿いに立つ大型の空いている三枚の看板を狩り、一枚目には事件の事実を、二枚目には警察の怠慢を、三枚目には警察署長の責任を、それぞれ問う言葉を大書する。

 そこには、警察が人種差別して黒人を虐めてばかりで犯罪捜査をそっちのけにしているという厳しい指摘も載せていた。



 広告業者の若い男は、引き受けたことで警官に文句を言われる。

 すると、問題ないことを確認したと言う。どうやって確認したのかと問われたら、専門の本を読んだと言い、どんな本かと詰問されたら「あんたたちが、よく、俺たちには関係ねぇという分野だ」と皮肉を言う。つまり法的な問題は無いということで、それについて、いつも警察は無視して無法を働くというキツイ嫌味である。だから警官も激怒して、後にその警官は暴力をふるってしまい、解任される。


 あれは派手ではないが話題になった映画であった。

 このあと、いくつも捻りのある展開になるからであるが、この看板広告という手法、警察や裁判所の無法を訴えるのには有効であろう。近所の看板では場所が合わないけれど、ちょうどよい場所にある看板の業者が引き受けてくれるか否かが、あとは問題である。

 どこか適切な所に空いている看板はあるだろうか。

 
 
 

 シリアのイラン関連施設をアメリカが空爆。

 この、どさくさ紛れ蛮行でアメリカは相変わらずだと思ったが、それと同時に思い出したのが、『トップガン』続編『マーヴェリック』である。

 前作は『プラトゥーン』と同じ年で、どちらも大ヒットだったが、『プラトゥーン』のオリバーストーン監督は、東京国際映画祭で来日したさい『トップガン』は「戦争賛美の軍国主義映画」と非難していた。


 そして主演のトムクルーズは、オリバーストーン監督の作品に主演する。

 主演作でヒットが続いたけれど次はシリアスな内容の映画に出たいと自ら望んで、オリバーストーン監督が『プラトゥーン』より前に企画していたが頓挫した『七月四日産まれ』に主演した。

 これは『帰郷』でジョンボイドが演じたベトナム戦争帰還兵のモデルであるロンコ―ヴィックを、かつて頓挫したさいはアルパチーノ主演の予定だったものをトムクルーズが演じることになったという次第であった。


 それから久しぶりの続編となった『トップガン マーヴェリック』 である。

 前作で活躍したF14戦闘機は総て退役していて、トムクルーズは部下とともにパラシュートで脱出したあと敵の基地に保管されているF14を奪って逃げる。

 ということは、アメリカが攻撃している核施設について「ならず者国家」の物というだけで名は出してないがイランのことではないか。イランは革命前の親米というより傀儡の国王の当時、最新鋭のF14を提供されていたのだから。



 そこで、有り得ない活躍をする主人公。

 新人の操縦士は、F14のコクピットを見て旧式さに呆れるけど、トムクルーズの教官は前作で乗って活躍した練達の技術で新型と闘って二機も撃墜するのだ。この、自分が慣れた旧式が最高という非現実な思い込みと願望の為かつて航空自衛隊で旧式の練習機が墜落して教官と練習生が死亡する事故があった。

 この映画はフィクションではあるが、そもそも、この映画の根本が、これからは無人機の時代という流れに逆らうもので、まだ職人が活躍できるという夢物語のため、敵の脅威を作って攻撃するのであるから、危ない発想である。


 あと、前作のヒロインが出てこないのは役者が激太りしていたから、らしい。

 それで、主人公の知り合いという別のヒロインが設定されている。扮するジェニファーコネリーのやっている店でデビッドボウイの歌が流れているのは、彼女が15歳の時に主演して大ヒットした『ラビリンス』へのオマージュだろうか。

 そして彼女がトムクルーズに持論を説くさい首を傾げる仕草をすることで神妙な気持ちを表現するのは、アイドルのようだった彼女がアカデミー賞を受けて演技派になる『ビューティフルマインド』その他よくやる演技だが、こんなところを気にして観ているのは余程のファンだけかもしれない。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2023年11月3日
  • 読了時間: 4分

更新日:2023年11月16日

 ガザで悲劇は過去に何度も繰り返された。

 そののうち昔テレビで放送された虐殺の映像について思い出す。家族を惨殺された女性が泣き叫びながら、取材に来た外国テレビに対して「これを撮って」と死体を示していた。多くの遺体が血まみれで横たわっていた。これを世界に訴えたいのだ。

 もちろん現実を知って欲しいと思うのが被害者の側としては当然のことだ。それを隠蔽したら加害者を利する。特に加害者が強者の場合は。


 ところが隠蔽すべきと言ったのが遠藤周作だった。

 あれは日経新聞に載ったコラムであった。事故も含めて、マスコミが死体などを撮って被害を訴えていることについて、遺族を傷つけることだと批判したのだ。そう言いながら実は加害者の政府や大企業を利する。この人は権勢に媚びる発言が多かった。

 だから同じキリスト教徒としてだけでなく政治的にも気が合う三浦朱門らと一緒に右翼文化人の同人誌で同人になり、その立ち位置からマスコミ報道を批判していた。それも、保守的ではあるが今よりは少しは報道らしい記事や論調があった当時の朝日新聞をアカ呼ばわりなど、当時の中曾根康弘首相の意向に沿った統一協会と完璧一致のヒステリーだったのだ。


 そんな低劣右翼の遠藤周作の代表作が似非キリスト教小説『沈黙』だった。

 これは日本で映画化とオペラ化していたが、マーチン-スコセッシ監督により大作の再映画化されたのが記憶に新しい。ベテラン監督だけに、内容の薄い原作を基に二時間四十分もの上映時間にして、それにしては退屈させない出来映えではあった。

 もちろん全体に不自然で、言葉と文化の壁があるにしてはスムーズにコミュニケーションしていたりだ。同監督は自作にカメオ出演する他にも俳優をする。黒澤明の映画では、周囲が仏語を話している中で独り英語を話すゴッホになる。そこまで不自然ではない。

 しかし問題は別にある。かつて同監督が自作ではない映画に俳優として出た映画で、共産党員であるため赤狩りでハリウッドを追われヨーロッパに去る映画監督の役をしていた。そうした政治的に迫害される人たちと、中世の日本で迫害されるキリスト教徒とを、スコセッシ監督が同じように考えていることは映画を観ていて解かるが、しかし原作の遠藤周作はマッカーシーの側である。



 監督が原作者を知らないという問題ではない。

 なによりキリスト教を日本がなぜ禁圧しているかの事情が全く描かれていないので、役人たちの態度が何故なのか判らない。それが仕事だから仕方ないと言って、煩わしてくれる信者の愚かさに辟易しているけれど、これは上からの指示だから公務員としてやっているということであり、ホロコーストの責任者アイヒマンらナチ戦犯と同じだ。

 しかしユダヤ教徒が憎まれているのとは違い、当時の日本でキリスト教が禁圧されていたのは欧州の植民地にされることを防ぐためであり、常に宗教は外国を侵略するため庶民を誑し込む道具であるから、徹底弾圧したのだ。今でも、例えば中国では政府がキリスト教会をが警戒しているのが、それに当る。

 それを、映画では文化の違いであるとし、日本の思想的な後進性に原因があるとしている。だから、宣教師が信徒たちを助けるため転んで見せて密かに個人の内面で信仰を守っていたという、とうてい宗教的ではないオチになったのである。この原作は諸外国のキリスト教界から批判されたが、ほんとうに怒るべきなのは野蛮人にされた日本人の方である。


 マーチンスコセッシ監督は信者を自称していた。

 そういうことにしておいて、前にはイエスを主人公にした映画を撮っていた。ピラト総督にデビッド-ボウイが扮して延々と語らせ観客席の大アクビを誘ったうえ福音書に無い脚色をしてキリスト教界から猛批判されたのだ。

 つまり、これは同監督の「炎上商法」なのではないか。キリスト教徒だったら絶対に有り得ない発想である。そう思っておけば、遠藤周作の小説なんかを真面目そうに映画化したけれど、赦せるのだ。

 
 
 
  • twitter

©2020 by 井上靜。Wix.com で作成されました。

bottom of page