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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 3月6日
  • 読了時間: 3分

 曾野綾子が死んだ。

 肩書は「作家」で、生前自称してもいた。小説家だが、文学賞は受けておらず、受賞したのは産経の「正論大賞」というのだから、要するに権勢に媚びて弱い物イジメを商売にしてきた人だ。これは周知のとおり。

 それをNHKは「途上国の福祉にも尽力」と、相変わらずあからさまな嘘を報じている。途上国に行ってそこで困っている人たちを乞食と見下していたのに。


 すでに指摘されていた。 

 この人は差別的な発想で貧困などの社会的弱者に「乞食」とか「妾」とかの言葉を浴びせてばかりだから、それを悦ぶイジメ好き差別好きの人たちがファンとして支えているにしても、またマスコミには権勢に媚びて弱い物イジメを商売にする人たちなどいくらでもいるにしても、曾野綾子の冷酷さと残忍さは度を越していて異常だった。

 例えば自民党の国会議員の野田聖子は、やっと授かった子供が高齢出産のためか産まれつき障害をもっていたけれど幸せだと言っていたが、そんな子供を作るなんて社会に迷惑だと曾野綾子は非難した。これに野田聖子は驚き、保守派の論客だと思って好感をもっていたが間違いだったという趣旨のことを言っていた。


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 その前から文芸評論家の山崎行太郎が指摘していた。

 彼は自らを保守派の論客としながら、曾野綾子の一連の非常識について彼女が自認している精神病歴に原因を求めていた。実際かつては自ら不眠症だったと公言していて、これは倉本聰のテレビドラマで「不眠症という言葉にはインテリの匂いがする」というセリフがあったけれど、そんな感じで自ら公言してはいたが、ほんとうは自分が有吉佐和子のように注目されないので悩んでいただけとも言われる。しかし、それでは済まない深刻さがあったということではないか。

 それを起用している文藝春秋・産経新聞・そこから派生したWILLなどの雑誌といったメディアたちは、狂人に刃物を持たせて暴れさせているようなものであった。

 

 それが93歳で死んだ。

 老人は適当な時に死ぬべきだと発言しておいて、手前は90歳代に入って生きているとは図々しいと言われていた。夫の三浦朱門は、男性に必要な体力のバロメーターは女性を強姦できるかどうかだと発言する他いろいろ非常識な暴言を吐いていたから似た者夫婦であったが、それが晩年は認知症になって妻は迷惑をかけられていたそうだから、その介護疲れによる世迷い言だったのではないか。だから夫が死んだら発言撤回したかのように90過ぎても生きていた。

 しかし適当な時とは90歳代ということを自ら実証したので、みんなそれくらい生きればいい。また曾野綾子はインタビューで、自分はたいへん大食いで元気だと言っていたから、ちょっとくらい食べ過ぎてもいいということだろう。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年11月9日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年11月9日

 スタイロンの小説『ソフィーの選択』を読了した。

 これは前に読みかけて放置していた。それを急に思い立ち最後まで読むことにした。随分と長い時間が経過していた。とても長いので、しんどかった。

 また、物語の進展のわりに説明が多いので、こういう小説は読むのが大変である。このような小説の方が好きな人もいるらしいが。


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 映画化は既に観ていた。

 八十年代の公開で、ソフィー役はメリルストリープだった。小説とは違った感じである。もちろん物語が小説から端折ってあるから、その影響もあるだろう。語り部の青年と一緒に海へ行ったソフィーは、泳ぐと言って全裸になって見せるから動揺させられるが、そのあと泳ぐソフィーが死ぬつもりで沖に進むから止めるという部分は映画に無い。


 この映画は公開当時に映画館に行かなかった。

 音楽は『追憶』などの映画音楽で知られるマービンハムリッシュで、その曲をFM放送で聴いて印象的だったから、のちにテレビで放送されたさい観た。そのあと新聞のテレビ欄の投書に、カットが酷いという苦情が載っていた。観ていない友達に奨めたのに、と。

 それでビデオで再見した。テレビ放送でカットされるなら他にもっと酷いのがいくらでもあるという感想であった。しかし映画館で観て未見の友に奨めた人は、ガッカリかもしれない。


 そして今では昔と変わったと思ったことがある。

 自分で映画の製作・脚本・監督をするなら『ソフィーの選択』のような映画がやりたい。スタイロンの小説やメリルストリープの映画が特に好きではないが、このような内容の物語を一生懸命に描きたいと思う。

 かつては、やるなら活劇や特撮やコメディーやホラーがいいと思っていたけれど。 

 これは、自分がやらなくても、もっと思い入れが強い人たちがやっている、という外的要因もあるが、それ以上に自分の中で何か変わったという内的要因がある。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年11月4日
  • 読了時間: 2分

 西尾幹二が先日死んだと報じられた時「評論家」の肩書だった。

 はたしてあれが評論をしていたのか疑わしいけれど、本業のドイツ文学では知られて無かったことは確実である。マスコミに出てくる大学教授なんて、だいたいそんなものである。

 彼が勤めていた電通大について、学生たちは何とも思ってないのかと言ってた女性がいた。あんな言動ばかりしているのがセンセイなんて、ということで。それについて電通大の卒業生が、何か言っている学生ならいるはずだと指摘していた。他の大学でも似たようなものである。


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 西尾幹二は『エクセホモ=この人を見よ』状態であった。

 そのニーチェ先生は梅毒の影響で神経を侵されていたから、その著書のような言動をしていたけれど、西尾幹二センセイも原因はわからないけれど似たような言動であった。

 また、ニーチェの言動はナチズムに利用されたが、西尾幹二も民族差別発言をして恥じないどころか、ドイツ語をやったから脱亜入欧したよような錯覚をしているのが明らかだった。欧米人から黄色い猿と言われコケにされる風袋をしている人こそ、外国語を習得して名誉白人のようにふるまうものである。


 それでいて日本人としてナショナリズムを説く。

 しかし、歴史修正主義者として発言しながら、「ドイツでは」を連発していた。いつの時代のドイツなのかということになるけれど、ケントギルバートの「アメリカでは」とか、アグネスチャンの「中国では」と違い、西尾幹二は自国でないのに言うもので、ちょうど岸恵子の「パリでは」みたいだが、これに比して西尾幹二は実に品が悪かった。


 覚醒剤を打っているようだとデーブスペクターが言っていた。 

 これはデーブスペクターが西尾幹二とテレビで同席したさい、西尾幹二の態度は狂信的というより覚醒剤を打っているようだと呆れて言ったのだった。

 この覚醒剤は、ニーチェ、カント、ショーペンハウエル、といった人たちである。あのマルコムXは全部読んだが尊敬できないと言っていた。ナチズムの素になったと言われているけれど、尊敬できないのは重要でないことに議論の多くを費やしているからだそうだ。

 また、批判する対象を設定して、その批判を拠り所とするしかないという学派の典型がマルクス主義に対する批判であり、これを西尾幹二は受け売りしていた。その点でも付け焼刃ドイツ哲学の徒であった。

 

 このように、滑稽な学者のステロタイプだから大いに笑わせてもらったものだった。

  

 

 

 
 
 
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