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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年2月3日
  • 読了時間: 2分

更新日:2022年2月4日

 日本の小説がつまらなくなったのは『太陽の季節』から。

 という指摘が昔からある。高校の図書室にあったから読むと納得だった。また、なんであの人よく「石原チンタロ〜」と言われるのかも良く解かった。


 石原慎太郎と同じころに活躍したのが三島由紀夫だった。

 三島由紀夫は、文学賞と無縁の小説家として売れた。その「無冠の帝王」だった時は面白かったとよく言われた。三島由紀夫の小説を全部読んだという同じ高校の人は、初期の作品は面白くて夢中になって読んだが、あとの方になると「またかよ~」という気になったと言っていた。


 三島由紀夫と逆だったのが石原慎太郎である。

 石原慎太郎は、文学賞でセンセーショナルに騒がれただけの小説家で、小説そのものは中身が無いと、これも昔からよく言われていたことだ。

 そういう商業主義が文学賞という見世物まさに「ショー」を演出して、中身の無い小説を騒ぎ立てる。これでは面白いわけがない。「不道徳だが刺激的でセンセーション」なのではなく、そうマスコミで宣伝したにすぎない。だから芥川賞など面白い小説など全く無いというのが昔からの定評だろう。


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 フィリップKディックが指摘していた。

 小説家は、そのうちスタイルで書くことを憶える。誰誰調という文学だ。これは便利で、売れるのには最適だ。そして、小説の内容は次第に失われていく。

 まさに三島由紀夫である。それですらないのが石原慎太郎だった。三島由紀夫は空飛ぶ円盤の研究会に入り熱心で、宇宙人が未確認飛行物体UFOに乗って地球に来ると本気で信じていたらしい。彼は宇宙に関わるSF小説も書いているが、あくまで三島由紀夫がSF小説も書いたというだけの話題で、小説は面白くないという定評がある。

 また、SFの大御所だったアイザック-アジモフは、空飛ぶ円盤の実在について訊ねられると「そんなものは信じません。信じている人は頭がおかしいと思います」と言った。その通りだったことを三島由紀夫は自ら証明するように命を絶った。


 ここに出てきた小説家たちが活躍した時代は、小説に存在意義がある時代だった。

 もちろん「今は昔」である。読むのは良い。これは、クラシック音楽を聴くのはいいが、新曲を作っても全く無意味というのと同じことである。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年2月3日
  • 読了時間: 3分

 東京と大阪の知事が無党派の期待を集めた。

 ところが東京都知事の青島幸雄と大阪府知事の横山ノックは、相次いで有権者を落胆させた。それで東京都知事が石原慎太郎に、大阪府知事が橋下徹に、という反動となった。青島と横山どちらも市川房江の弟子である。市川房江も格好つけて不見識な偽物だったから、もう一人の弟子である菅直人にも期待できるはずもなかった。


 一方で長野県知事が田中康夫で何かと話題だった。

 田中知事は、石原知事を外国記者クラブの会見で「カワード」と評した。臆病というような意味である。自民党は、田中知事について、セクハラで辞職した横山ノックのようになると攻撃していた。その根拠とは田中康夫が雑誌に下ネタで描いていたからだ。たったそれだけでは根拠が乏しいが、しかも題名について『ペリグロ』と言っていた。『ぺリグリ』の間違いである。これは結構いやらしい言葉であるが、しかし石原知事だって『太陽の季節』で石原チンタローと言われていたのに、大した違いではないだろう。


 石原慎太郎がワープロを使っている様子がテレビに映ったことがある。

 もともと小説家として石原慎太郎は、セーラーだったと思うが、とにかく和製の万年筆で書いていたらしい。欧米の万年筆は横書きを前提にしているから縦書きには向いていない。また漢字で字画が多いと細かくなるので、和製またはジンハオとか英雄とか中国製が良い。自分は何かとドイツ贔屓なのでペリカンを使っているしモンブランも持っているが、日本語の手紙などは主にペンテル(ペン先はセーラー製)を使用している。


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 田中康夫はサインペンで書いていた。

 テレビで万年筆の話題が出たさい、田中康夫はサインペンだと滑らかで使用が気楽だと言っていた。たしかにそうで、何より安価である。高い万年筆は書いていて疲れないし線のうねりも華麗であるが、今ではパソコンやスマートホンより高額である。だが、高い万年筆ほど古くなるにつれて書きやすくなり、字も美しくなる。


 前に出版社の打ち合わせで万年筆を使っていた。

 そのさい、滑らかで早く書けるから使っていたら、出版社の社長が見て「それモンブランだね。ちょっと書かせて」と言うので貸したら、スラスラと書いて「これは書きやすい」と言っていた。同じく同社に寄稿している大学名誉教授が言った。「たまに手書きしないと字を忘れてしまう。電卓を使って計算してばかりだと、頭を使って計算できなくなってしまうように」と。


 なんであれ、たまには手書きの筆記具を使ったらいい。ワープロのデーターにするのは編集と印刷に好都合だからだ。しかし石原慎太郎も田中康夫も、もともと手書きであった。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年1月26日
  • 読了時間: 3分

 過日、高校生の時に愛読していたナット-ヘントフについて述べた。

 彼の小説『ペシャンコにされてもへこたれないぞ!』に、当時ベトナム戦争の徴兵忌避と、大学に入っての学生運動と、社会人になってどうするか、実力をつけて社会的な影響力を得たり、それ相当の地位に到達したりの後が良いか、それは日和見主義か、という問題がでてきた。


 この程度のことは普通の十代が考える水準である。

 また、その小説のなかで、社会に向かって何かしたいなら実力を付けてからにしたほうが良い、そうしたら影響力がある、と説くのは主人公の父親だった。お父さんは、息子にいちおうの理解はしているが、では大人になってから自分はどうかというと、お父さんは駄目だった。お父さんの言い訳とは、自覚した市民であることより他人から指示されるほうが考えなくて良いと多くの人たちが思っているから、社会に失望して自分の利益しか考えなくなって仕事人間と化したということだった。

 それで最期に主人公はともだちと一緒に、兵役を拒否する人は合法的にカナダに行けるよう窓口を作ろうと相談する。


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 その当時、自分の通っていた高校の担任教師(男性で担当は古文)が「人間は他人に尽くすために生きている」と偉そうに説いた。

 しかし、ほんとうに他人に尽くすには、自分も実力を付ける必要があるのではないか。受験勉強するのも、自分の出世のためだけではなく、社会的な影響力を付けることになるのではないか。

 そう問いかけても彼には理解できなかった。これは中学の担任教師も同じだった。この人は男性で理科の担当だったが「努力すれば自分の可能性が広がるんだ」と説教するけれど、努力イコール学校の勉強でしかなかった。こういうよくいる教師に対して、高校の担任教師は「自分の方が偉い」と言いたげに「人間は他人に尽くすために生きている」と嘯くのだった。そして、実力を付けるのは自分の出世のためばかりではなく人に尽くす実力を付ける意味もあるのではないかと言うと、そういうのは社会を変えようという「アカ」の思想につながると思っている田舎者だった。


 そんな政治的・社会的な課題でなくても、人に尽く実力という問題は人生につきまとうものだ。

 それが理解できない高校の担任教師を、ある同級生は「実質の伴わない言葉だけが虚しく踊っている人」と言い、他の同じ組の人は「人は良いけれど頭が悪い」と評していたが、「ここへ赴任してくる前に勤務していた高校が山奥だったから仕方ない」と言った生徒もいた。実際に、田舎の庶民ふうの同級生と親は、この担任教師を絶賛していた。

 では、米国でもヘントフが住んでいたニューヨークなど彼の小説の舞台は都会だが、これがスチーブン-キングの小説のように田舎だったらどうか。それでも「弱い者いじめ」には屈してはならないという少年が出てくるので、そこだけは日本と違うのだろう。


 
 
 
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