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​炬火 Die Fackel 

 落選した枝野幸男の生活費についての発言が話題に。

 政治献金だけでは食っていけないと言うことだった。政治活動資金と生活費の区別も必要で、講演があれば収入になるのでありがたい、などと言っていたそうだ。

 国会議員ということで威張っていた人が落選したら惨めということは昔からあった話だ。



 枝野幸男は官房長官まで勤めて落選した。

 しかし元々が弁護士だったはずだ。なんで本業の弁護士で稼がないのだろうか。よく弁護士が政治家になるのは落選してもまた復職しやすいことがあり、それを多くの人が実際やっているのに。

 例えば白川勝彦もと自治大臣は、自民党で大臣を勤めまでしたが当落選を繰り返し、晩年は弁護士活動を本格的に再開し「元自治大臣白川勝彦」という法律事務所のウエッブサイトの広告を大々的に掲載していたのを見た人も多い。


 枝野幸男は、もともと弁護士が駄目だったから政治家になったのだろうか。

 そもそも彼の政治に対する関心はまさに「にわか」であった。だからテレビ政治に乗っかって政界入りした。その見識の薄っぺらさは、よく指摘されている。

 これと白川勝彦は違っていた。どこが違っていたかというと、彼は大学生の時に共産党と正式提携している民青同で活動していたので、自民党に入ってからも「共産党は古巣」と言い、自民党の中でも常に左派で、進歩的な態度で一貫していた。政権交代が必要だとも言い、民主党から選挙に立候補も検討していたと言われる。

 つまり元々から政治に強い関心があったか否かの違いである。


 ところが枝野幸男になると、御都合主義ではすまなかった。

 それが、このたびの安保法を違憲から合憲への「ちゃぶ台返し」となった。そもそも枝野幸男は立憲党の言いだしっぺであり、それはなぜかというと安保法制が立憲主義の否定だということだったはずだ。

 そんなものは一時的な方便だったのだろう。だから枝野幸男は次第に選挙での得票を減らし、あげくの落選である。これでは弁護士としても信用できないから雇ってもらえまい。

 それで、国会議員から落ちたら弁護士に戻れず講演で稼ぐということだろう。出来損ない弁護士の政治家の無様な末路というわけだ、

 
 
 

 今の小選挙区制は、政権交代が頻繁というか定期的に実現する。

 そういう幻想をばら撒いたのは、福岡政行と山口二郎だった。これは周知のとおり。福岡政行は小政党所属や無所属の少数派議員は無駄だから排除すべきと説いたし、平和や福祉を説くのも無意味だと言い放っていた。 山口二郎は社会党の護憲を時代遅れ呼ばわりもした。

 こういうことをしてきた。


 だから市民連合というのが立ち上がった時に言われたものだった。

 「どの面下げて」と。 それに山口二郎がいう「1990年代以来の政治改革、政党再編」は、自分が小選挙区制推進と社会党解体の旗振りをやったことを指しているらしいけれど、それのどこが「政治改革」か。そんなのは「政治改悪」でしかなかったし、その結果が第二次安倍内閣の長期政権と今の高市政権成立であると言っていい。


今となっては皮肉でしかない
今となっては皮肉でしかない

 この首魁は小沢一郎であった。

 それで二度の政権交代となり、一時的に自民党は下野したが、それだけで、最初に言っていたこととは大違い。

 この「政治学者」たちは反省を口にもしたが 、そんなことは最初から指摘され判っていたことで、後から結果として違ったのではない。

 だから、ここで問題になるのは、これら政治学者のとった姿勢である。なので、このさい小沢一郎がどうしたとか、そういう話は他でやればいいことだ。


 この政治学者たちは、論文を書いていたのか。

 それが大学雑誌や学士会報に載ったのか。そうではなかった。そんな戯言は、いくら学会が堕落していても載るわけない。

 それはマスメディアである。福岡政行は『ニュースステーション』に出て勝手なことを言い放題していたし、山口二郎は『週刊金曜日』で書き散らした。

 という次第だから、そんな政治学者を起用した一見リベラルなメディアの正体見たり、ということである。

 
 
 

 高市早苗首相と河瀨直美監督は同じ奈良県の出だ。

 この二人は同郷であるゆえ、そっくりな発想と行動をする。あの地方すなわち兵庫と奈良と大阪は、突出しておかしな政治家の産地といわれ、これには一つの理由があると指摘されている。

 それは宗教ということらしい。どういうことだろうか。


 その宗教とは、統一教会とか創価学会ではない。

 また、天理教でも弁天宗でもない。 生長の家であり、この生長の家を産み育ててしまう文化的土壌が、そんな政治家を輩出させているらしい。つまり、右翼宗教の代表的な生長の家が活発になる土地柄ということだ。

 どうしてか。生長の家はオカルトやスピリチュアルの体質をもつ宗教であり、このような団体はファッショであるのが相場だ。



 河瀬直美監督の映画とも共通している。

 あの監督の映画は、代表作で奈良が舞台の『殯の森』など、ことごとくオカルトというかスピリチュアルというかの土壌の上に構築されている。

 そして監督自身が奈良県の出である。だから映画の舞台にしていて、その土地柄は、映画の題名のとおりオカルトやスピリチュアルの発生しやすいおどろおどろしい森があり、人里は地方というより田舎であり、その人間関係が実に窮屈だからパワハラも発生しやすい。


 高市首相の太田光に対する威圧的な態度はパワハラだった。

 テレビで気に入らない質問をしてきたタレントに対して、高市首相は関西弁を喋り出した。対人関係のツールを変え、支配と被支配どちらかの人間関係しかない田舎の人がやる対応をした。

 河瀨監督の演出のさいのパワハラも有名だ。田舎DV的な支配の手法をとって周囲を自分に服従させていることは周知のとおり。

 だから、高市早苗と河瀨直美は、奈良県の出で、おどろおどろしいスピリチュアルと威圧的なパワハラの支配する田舎ということで、行動が共通するのだろう。

 
 
 
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