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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年12月9日
  • 読了時間: 1分

 前に名刺を作った印刷所から年賀状作りの案内が来る。

 しかし、このところ挨拶するとしたらe-mailにしている。かつて年賀状は大量だから値引きすべきであると主張する人がいて、それには反対だった。郵政事業を支える財源を確保する一つとして年賀状は有効だろうから。

 しかし民営化で郵政事業がすっかり駄目になってしまったので、支援する必要がなくなった。だから年賀状は出さない。


 余談だが、それにしても郵政事業の劣化はひどい。

 前は、速達や書留など無用になったというくらい早く確実に届いたものだが、それを止めてしまい、遅いし不確実で、それが嫌なら料金を足して速達や書留にしろというようになってしまった。


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 役所が初詣は混雑を避けようと広報していた。

 前に選挙は期日前投票して混雑を避けようと広報していたけれど、それで期日前投票のほうが混雑してしまった。

 しかし投票ならともかく初詣は無用だ。かつてビートたけしが「交通安全の祈願に行った帰りに交通事故に遭い死傷する人」の話をギャグにしていたが、笑いごとではない。健康祈願に行ってコロナウイルスに感染することも有り得る。

 そもそも、神社仏閣の御陰で安全や健康が得られることは一切ないのだから、ただでさえ無駄なのに、危険を冒して行くなど愚かである。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年12月5日
  • 読了時間: 2分

 統一協会の件から宗教の金儲け主義とともに親の子供への強制が問題になっている。

 もともと日本の宗教とは寺受け制度とか檀家制度とかいわれるものにより家族で一緒の宗教が当たり前できた伝統があった。だから、親と同じ宗教なのが普通であって、子供が別の宗教を信仰することは家庭内の対立の原因となり、世間一般からは親と違う宗教に走る子供のほうが非難の対象となったものだ。

 それで、親や地域社会と違うと、政治的分野では「アカ」だと共産主義でなくても言ったのと同じように、宗教だと「ヤソ」とキリスト教でなくても言って、非難された。とくに田舎に傾向が強い。



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 だから新興宗教の信者が自分の子供に同じ信仰を強制するのは自己否定も同然である。

 しかし、それは宗教が悪いのではなく「毒親」が悪いのであり、宗教に原因があっても宗教それ自体ではなく宗教団体が悪いのだ。

 そもそも宗教とは、本来、親が立派な人間であるため子供に尊敬されて良い手本になるから、それは宗教の影響だろうと思い同じ信仰を子供もするようなるものである。

 それを出来ない駄目な親が子に強要するのだ。

 そして、教団も組織の維持と財政の基盤を安定させるために好都合だから、ほんらいなら邪道である世襲を容認してしまう。


 このように親から子供に強制することは、権力に擦り寄り統制に利用されての強制と同様に、宗教の堕落なのだ。


 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年11月13日
  • 読了時間: 4分

 「親から体罰」とエホバの証人3世が告白したのをマスコミが取り上げた。

 しかし、エホバの証人(ものみの塔)の教団は、そのような信者がいたとしたら残念なことで、なぜなら教義は暴力否定であり、また愛し合うべき家族が暴力で服従させるというのも教義に反していると説明した。


 これで思い出すのが『キャリー』という映画だ。

 このリメイクは観てないから知らないが、映画では母子家庭のわけが説明不足だ。原作のスチーブンキングの小説では説明があり、キャリーのパパは労災死で、建設作業員をしていて事故に遭った。つまり仕事柄なのだが、それをママは信仰する宗教の戒律を厳守しなかった天罰と思いこみ、教義の細かいことまで娘にも強制する。

 だから教会のせいではない。教会は聖書の一字一句まで忠実にという「根本主義」だったが、信者全員がキャリーのママと同じではない。

 いま言われる「宗教二世問題」も、親の信じ方が問題なのに宗教自体が総て悪いとコジツケするのは行き過ぎだ。一般的な「毒親」の問題として扱うべきである。宗教が影響していても飽くまで親の態度が問題なのに、特定の団体を名指し報道は悪意と政治性を感じる。

 というのもエホバの証人はアナーキーな教義で権力と対立してきたからで、そこへマスコミは狂信的な親ではなく宗教が悪いように報じ、日本会議系など権力に擦りよる宗教だと同じような親はいくらでもいるのに叩かないから、とても危険に偏向した報道である。


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 もともとエホバの証人は非暴力主義を説く宗教だ。

 これを当人の意思で信仰する生徒が学校の体育で武道を強要され、柔道は素手だから締め技でなければスポーツといえると妥協してやっていたが、次に剣道をやれと言われて、これは武器を持つからできないと拒否したところ、右翼的な教師から暴力をふるわれた、という事件があった。これは裁判で、信教の自由の侵害だと認められたし、そもそも教師が単純バカの体育会系丸出しだったから世間でも学校が悪いと受け取られた。

 さらに、銃剣術を体育でやれと言う元自衛官の国会議員もいる。エホバの証人の教えは、神に最も権威があるのだから国家権力は優先順位が低いとしていて、だから国旗・国歌を拒否したり、非暴力主義から兵役を拒否したり、なのでファッショ的・軍国主義的な権力からすると実に不都合だが、この点についてはエホバの証人だではなく、他の宗教でも、宗教と関係なくても、人間の自由ということから問題になる。


 また、エホバの証人では古文書の「血を避けなさい」を血の滴るようなステーキを食べるなとか輸血するなとか解釈している。

 これは宗教研究家たちから曲解であるという批判がある。しかし信者たちは肉の血を絞ってオカラみたいにして食べていて、不味そうだから、いっそのこと菜食主義になればいいのに、戒律を守ることに意義を見出している。こうなると本末転倒だが、それだけ大事な信仰というなら仕方ない。他人が口出すことでは無い。


 あと、輸血拒否は医療の現場で問題になったが、エホバの証人の御陰で注目され良かった点もある。

 そもそも同意が問題になるのは、輸血にリスクがあるからで、それなのに必要だからと(本当か不明の場合も)勝手にする医師が昔は普通にいたのだ。しかし宗教が騒ぐから病院が同意に気を使い、おかげで無用な輸血をされず助かった人もいる。これは自分もだ。あの当時だったら肝炎に感染していた可能性が高いと医師に指摘された。


 暴力反対や戦争反対も少々狂信的に見える宗教が頑なに抵抗してくれたことで、社会全体に影響を及ぼすことがある。

 しかも、宗教とは無関係の人たちが影響されたり励まされたりする。戒律ではなく信念を貫く大切さを教えられるからだ。もちろん、クエーカー教やエホバの証人と違って統一協会は戦争反対どころか権力すりよりだから学ぶことは無いけれど。あとエホバの証人もアメリカでは教団が処世術で権力に迎合するようになったと批判されているから、その点は他の宗教と同じであり、宗教の限界かもしれない。


 しかし、社会の公式見解と異なるからと個々人の信念を否定して「カルト」だの「偽科学」だの「陰謀論」だのと紋切り型のレッテル貼り攻撃する風潮は「ファッショ」や「紅衛兵的」である。

 
 
 
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