もともと神社の御札は、神官が詞を筆で一文字一文字、心を込めて書いたものだった。
それはとっくに無くなって、みんな印刷になった。板切れに、詞を印刷した紙を糊で貼るだけ。板も紙も業者が機械で切って、貼り付けは手内職。
これを「ご利益」があるとして売り、原価と販売価格を比較すれば暴利とさえいえ、これこそ「霊感商法」である。
しかし神社のしていることは宗教ではない。
あれが宗教だと思うから不当な感じがするけれど、観光に行ってスタンプを押すようなものだと思えば、絶対的な値段が安価であるから、なにも問題がない。また「鰯の頭も信心から」である。
ところが統一協会の壺は高い。
原価と比しての販売価格というだけでなく絶対的な価格が高い。それでも自由な意思で納得しての購入なら構わない。しかし、霊感商法は自由意志を奪って任意の形をとる。
これはちょうど警察の取り調べと同じである。裁判で自白の任意性が問われるのは、日本では弁護士もつけず密室で一人が大勢の警官に取り囲まれ、自白させられるのが普通である。これでは冤罪ばかりで当たり前だ。
だいたい、基督教が壺を売るだけで変だと気づくものだ。
ところが買う人がいる。これだけで判断力を奪って騙している証拠だと言えるだろう。
よく言われる「統一教会」とは逆輸入みたいなもので、英語圏でchurchと訳されたのが漢字圏に戻ってのことだ。元々は「統一協会」で、これはNHKのK、日本放送協会の協会と同じでcorporationである。
ところが基督教文明圏では主に異端として問題になっているから教会ということでいいが、日本では霊感商法が問題で、壺を売るなんて基督教ではない。正式には統一神霊協会だからオカルトの協会ということである。
では神社もオカルトか。
そのような要素はあるが、あれは先に指摘したとおり観光だと思うべきだ。仏教でも観光寺といわれることをしている。だから夜に仏閣をライトアップして見せ、宗教の見地からすると愚かしいことをしているのである。
つまり、特に日本はそうだが、みんなが宗教だと思っているものは宗教ではないのだ。