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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年4月5日
  • 読了時間: 2分

 慶応大学の細谷雄一という人が持ち上げられると自爆した。

 この人は、ロシア悪と言わないのは間違い情報によるものと説き、そういう彼こそデタラメで商売臭いと指摘されていた。そんなところへ、彼のツイッターを『ハフポスト』が取り上げて宣伝した。ネット上の匿名の共感を取り上げて、絶大な支持が寄せられている、などと。


 これは『ハフポスト』にとって毎度のことだ。過去の色々な社会問題で行われてきたのと同じ図式だ。扇動役を見出しては拡散役を務める。そして必ず権勢に媚びる。ここで批判されたのは、戦争を悪いというならともかく、あれでは戦争を煽っているというしかない姿勢であった。そのとおり戦争翼賛であるなら、やはり相変わらずの慶応大学ということになる。安倍総理との会食した学者の一人でもあった。



 ところが細谷雄一という人は、持ち上げられていたのもつかの間、自爆した。

 この人は、自分のサイトに寄せられるコメントは他よりレベルが高いとツイートして自画自賛する厚かましさだったが、それと関連する話のさい凄まじい無知を開陳していた。

 「結局1960年代と70年代の学生闘争の世代の方々が形成した思考枠組み、①米国は好戦的、②日本の保守政権は米国に追従、③社会主義の中国やソ連の(ロシア)人民と連帯すべき、という思考が現在に至るまでマインドコントロールのように再生産されて、多くの人がその思考でウクライナ戦争を見てるのでは。」

 あまりの荒唐無稽な妄想なので、ウクライナ情勢でロシアを一方的に悪とする西側メディアを鵜吞みにして同じ認識と意見の人でさえも「細谷雄一という人は60~70年代の政治状況について完全に間違っているどころか非常識すぎる」「この人ほんとうに政治学者なんだろうか…」などと呆れ驚いていた。

 あの当時の日本では、冷戦のためソ連も中国も米国と対立するなかで同じようになってしまったと、社会主義者など左派が特に批判していた。むしろ社会一般より強く、深刻な問題と認識していた。こんなの常識だ。

 やはり『ハフポスト』に持ち上げられる人らしいのと同時に、やはり慶応大学の人らしい、ということになるのだろう。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年12月7日
  • 読了時間: 2分

 大学の法学部に通っていた当時のこと。

 ここの法学部は司法試験より犯罪学の方が盛んであった。その点では面白かったが、後で知り合いの弁護士は、非実用的だと言った。これは職業にするための資格を取ることにやくたないという意味ではなく、どうでもよいことに多くの議論をすることだからだ。


 その代表だったのが「犯罪の現象学」であった。

 これは刑法の白井駿という元検察官で弁護士もやっている教授の講義であり、その著書の題名である。部数の少ない本だからだろう、分量にしては定価高額だった。



 そもそも元検察官の弁護士は駄目だと言う人がいる。

 たしかに「辞め検」の弁護士には評判の悪い人がいる。しかし、この白井先生は授業の他に八王子で裁判を傍聴したことがあるけれど、良心的であった。ただ、授業中に疑問に思う発言があり、それが検察官だった人ならではのものだった。

 例えば、「日本で刑事裁判の有罪率が極端に高いのは、検察が有罪にできそうにないと判断したら不起訴にするからで、裁判が検察寄りで一方的ファッショ的という批判は当たらない」という検察製のデマゴーグを話していたことには、学生の立場でも呆れたものだった。米国の刑事ドラマを見ていると描かれているように、外国の司法でも、民事でも刑事でも、本裁判にできるか予備審問があって公開で行われる。日本のように検察が密室で恣意的に行うものより遥かに公正である。

 しかし、検察に勤めていると、検察ファッショの体質に染まってしまうのだろう。タレント弁護士の大沢某とか国会議員だった山尾某も、同様である。


 また「犯罪の現象学」なるものに批判というより失笑した法学者がいた。

 白井先生は犯罪についてフッサール現象学を用いて解読する手法を大学院時代に教員から奨められたそうだが、そもそも現象学というもの自体が、どうでもいいことをもっともらしく意味ありげに語り気取る貴族的な学問だという指摘が思想史的見地からある。そんなもので切実な社会問題を解読した気になっているのが滑稽ということだ。それを実務で実践したと言ってみたところで後知恵にすぎない。


 まあ、この失笑は当たっていると思う。

 もちろん、学生時代には正直いって法学部の授業で最も面白いものであったことは確かである。だからレポートも楽しく書いて評価Aをもらってはいる。その後の体験が認識を変えさせたのだった。


 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年11月23日
  • 読了時間: 2分

 90年代に書かれた社会科学系の本を何冊も再び読みなおした。

 あの当時に書かれた本は、この先の世界はこう変わるという予測をすることが流行していた。それで当たっている本は無い。政治も経済も、時勢につけこんで主観的な願望を語っているものは最初から嘘であることはもちろんだが、冷静に歴史的な分析をしているものでも、そこから先を推定すると外れてばかりである。これがあまりにも酷いので、過去の分析も実は間違っていたから、未来の予想も当然ながら当たらないのではないかと思ってしまう。

 

 これに比べるとSF小説の方がはるかに当たっている。

 ただし、科学的な発展は予想が外れてばかりである。これは昔から指摘されていることだが、そう簡単に短い間に科学が発展することはありえないからだ。しかも、そのうえ人間の限界があって、体力も知力もせいぜいこの程度で終わりということが解ってきた。

 ところが、社会が危ない方向に進んでいくという点では、ことごとく当たっている。今の現実で誰にとっても好ましくないことは、昔のSF小説で描かれていることばかりだ。


 前に雑誌で読んだ漫画で、こんな場面があった。

 将棋やチェスの手は考え尽くされてしまったので、それを総て組み込んだコンピューターには名人でも勝てない。しかし、その将棋ゲームのソフトをプログラムした人は、あまり将棋の手を知らなかった。それを知っている人が、自分の方が知っているから楽勝だと思って試す。やはり簡単に勝てそうだった。ところがそこへ「地震だ」という字が画面に出て、画面が揺れて駒が滅茶苦茶になる。それでゲームオーバー。



 これはギャグとして描かれていることだが、この調子で現実の世界も動いているのではないか。それで空想とかフィクションとか言われる話の方が、よほど実現しているのではないか。


 

 
 
 
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