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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年12月25日
  • 読了時間: 3分

更新日:2021年12月29日

 先日、裁判所で事務官をしている人に訊いた。

 すると、裁判所は今もファックスを使用しているそうだ。ファックスは時代遅れで、外国では博物館にあったりもする。公的機関としては、固定電話だから確実性が高いということだったが、しかし画質は悪いし、料金もかかる。通信の間に時間がとられ、その間に電話が使えなくなる。

 そうではなくPDFなどにすれば、画質は良いし、時間も料金も少ないし、相手が訪ね当たらないとデーモンが返ってくる。それが、ファックスだと番号を間違えて気づかないこともありうる。

 なのに、今もファックスを使用している事情について、勤務している人も解らないそうだ。


 ところで、裁判所の受付をしている女性の几帳面は問題である。

 だいたい、弁護士も言っているとおり、裁判は結構いいかげんにやっているものだ。これで最悪は無実なのに死刑ということまであるし、権力や大資本が相手だと裁判官は故意にデタラメをして、そういう人ほど組織の中で昇進していく。「上級国民」にえこひいきということも問題で、「法の下の平等」が日本の司法には無い。

 だから書式など平気で無視しているのが実態だが、女性は几帳面すぎて、重箱の隅を楊枝でほじくるようなことをする。いくらそんな厳密性にこだわっても、裁判が始まれば不真面目な裁判官が多いので、ほとんど関係ない。虚しいだけである。



 また、真面目な裁判官も嫌な顔をしていることがある。

 とにかく、粗探しすることで仕事していると思っているような女性の書記官や事務官は、あとから法廷で確認するさい簡単に解決できることすら、最初に細かくとやかくいって訂正させ、そのたびに訂正印を押すことになるから、朱肉で所々が真っ赤になってしまい却って読みにくいし、そうまでする意味が乏しいどころではないのだ。

 それに、多少の問題や難があっても、原告と被告の双方で善良に解釈しあうもので、それを揚げ足取りはせず、訴訟の攻撃と防御であっても誠実さが必要とされている。それが解からないのか、他人の間違いを指摘して悦に入っているのか、几帳面すぎるのか、実に困ると言う。


 また、アガサクリスティー作『検察側の証人』のドラマ化みたいなこともある。

 ここで、弁護士が法廷で違うものを提示し、それは偽物で本物はこうなっているはずだと相手方に言わせてから、ではこれだと本物を出して見せる場面があるけれど、そうした手口でやっているのに、よく女性の事務官や書記官から先に言われてしまって迷惑することがある。善意のお節介であるから始末が悪い。


 結局は、何のために慎重になるのか本質が解っていないという問題だ。

 それで裁判所は、今もファックスを使っていたり、生真面目な職員が本末転倒をしたり、ということなのだろう。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年12月24日
  • 読了時間: 2分

 各地の裁判所で判決文に同じ誤記があった。

 これは、趣旨は同じだが別々に起こされた訴訟でのこと。全く同じ判決文のうえ、誤変換らしい誤記まで同じだった。つまりコピペだったのではないかという疑惑である。

 その訴訟とは要するに、国の政策や行政の内容が、合法的に決められてはいても違憲の状態になっている、という趣旨だった。これに対して、政治的に決められていることに対して憲法違反であると文句を言っても駄目という判決である。


 これは本来、よほど高度な問題について政治的に判断された場合に言うことだ。

 ところが現実には、そんな程度の高い話であることは先ず無い。どうみても裁判官が職務放棄して逃げただけという程度のことである。実際この訴訟にしても、生活保護費の減額について、憲法で規定された最低限度の生活という水準を下回る結果になっているという訴えであるから、それが現実の生活とか物価とか具体的に見てどうなのかと判断できるはずだ。その程度のことでも判断から逃げる裁判官が、横並びで御手々繋いでというわけだ。



 テレビドラマで同じ誤字からカンニングがバレる話があった。

 例えば音楽の女性教師が笑って「古典主義」の「典」が「店」になっている答案が同じクラスに複数あったと言うなど、御粗末なカンニングだった。これと同じ水準の裁判官たちがいたのだろう。


 もともと「裁判官の独立」は絵に描いた餅であった。

 裁判官は独立して業務にあたるとされ、それを裁判官もよく法廷で嘯いているが、それにしては、上司の介入とか口出しとか横車を押すとか圧力とか、もう酷い実態であった。

 これについては、その意味で最低の悪徳判事だった貝阿彌誠がその後も弁護士として「なるほど」の地位と仕事であることを色々な人たちが告発しているし、自分も直接の体験談を述べたことがある。

 つまり、そもそも司法権の独立だけでなく裁判官の独立が無い無法地帯の日本社会なのだ。

 
 
 

 選挙と同時に最高裁判所判事の国民審査がある。

 これは、解らないから何も記入しないで投票箱に入れると信任したことになってしまう。このやり方に怒って全員に×を付ける人たちがいるけれど、ほんとうに全員を不信任だと考えるならそれで良いとしても、あまり現実的ではない。誰にとっても全員が駄目ということは殆ど有り得ないからだ。

 それに、解らないから信任も不信任もしないという場合は、投票用紙を渡されるさい棄権すると言って受け取らないことになっている。



 また、自分では解っているつもりの人たちも、危ないことを言っている。

 今回は、選挙で選択制夫婦別姓が争点の一つになっていることも影響してか、過日に最高裁であった夫婦同姓の強要は合憲か違憲かの意見によって、判事の信任か不信任を決めようと言う人たちがいる。つまり、自分の考えと合っていない最高裁判事を辞めさせようということだ。

 これだと、夫婦別姓に絶対反対の人たちが復古主義的・封建主義的な宗教団体を通じて組織的な投票をして、夫婦同姓の強要は憲法違反と言う判事を不信任で辞めさせることにもつながるし、他にも例えば死刑制度は違憲であるという意見の判事に対して、感情的な人や血に飢えている人やファシストが大勢で不信任をして辞めさせることにもなり、刑罰の集団リンチ化につながる。


 だから、主観的な正義による投票は政治では良くても司法では良くないのだ。

 では、他の判断材料はあるかというと、あっても一般的に不明なことばかりである。そもそも国民審査なんてものは無理なことで、そんなことは承知のうえで民主的な制度があると見せかける偽装・詐欺の制度なのだ。

 どうやっても誤った結果になるし、誰だって判断しようにも解らないし、解っていると思っている人たちは勘違いしているのだから、棄権しかありえないのだ。投票用紙は受け取らないことである。

 
 
 
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