- 井上靜

- 9月24日
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岡口基一もと裁判官が雑誌に寄稿していた。
そこで、裁判官の御粗末について述べていた。裁判所がいい加減だから、専門分野の違う裁判官が担当し、民事をやっていた裁判官が刑事をやってさっぱり解らないものだから、被告がどんな人であるかによって先入観を持ち、嫌疑の内容や証拠などは無関係に決めつけてしまうことがある、という。
これは偏見が影響するどころの話ではなく、判断の放棄である。
そもそも日本には「法の下の平等」が無い。
「職業に貴賤は無い」という綺麗事があるけれど、現実には序列がある。そう指摘していたのは名作漫画『ナニワ金融道』の作者だが、お金の取引で、その現実は露骨に出てくるということだった。
それでも、商取引の現実などやむを得ないものだから、まだ許せるところがある。
ところが司法の場で堂々と言われている。
よく、女性への性暴力で犯人が医学生だと司法が異様に甘いという実態が話題になるが、これが医療訴訟では露骨に医師および代理人の弁護士が口にしたり書面に記したりしている。
そもそも医師の側から言うから、それを受けて雇われた弁護士も言うのだが、それにしても凄まじい実態である。
誤って筋肉や神経を切ったことで手が動かなくなった場合の実例。
それで楽器の演奏ができなくなって、音楽大学に入れなくなったとか退学せざるを得くなったとしたら。
加害医師は言う。「どうせ大した才能じゃなかったんでしょう」と。そして他の医療機関の無関係の医師が言う「もしもモーツァルトみたいな才能ががあったとして、それをメスでチョンってわけだ。医者って凄いなあ。ウッヒャッヒャッヒャッ」と嘲り笑う。
だから雇われた弁護士は裁判で堂々と主張する。「人生が狂ったとしても、しょせん芸人すなわち河原乞食になれなかった程度のこと。これは三味線を弾く芸者であろうと、クラシックのピアニストであろうと、同じことである。それに比べたら医師の社会的地位は高い。その程度のことで非難されるのは不当である」
こういう実例を挙げていたらきりがない。

社会的地位が高い者は、その地位に相応しい責任があるはずだ。
ところが、この考えは日本では通用しない。社会的地位が高い者は、失敗しても、それを社会的地位が低い者から追及されてはならないのだ。
これを下層の庶民が積極的に受け容れている。だから追及する者を庶民が迫害する。偉い人に対して盾突くなんて生意気な奴だと言って。戦争に非協力的だと憲兵が弾圧しなくても庶民が非国民と言って迫害していたのが、今もずっと続いているのだ。


