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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年6月17日
  • 読了時間: 2分

 東京オリンピックの問題で、選手に罪は無いから批判するなという意見が少なくない。

 しかし、自らの言動に責任を負わないでいたスポーツ選手が、その知名度によって山下泰裕や橋本聖子のように責任があるはずの地位を得てしまったら特権意識を持ち、社会にとって有害無益ではないか。そう考えてもみるべきだと、見識ある知人が指摘していた。

 たしかに、オリンピックで活躍したからと思い上がっている人たちがいて、中には深刻な不祥事を起こす人もいる。


 かつて『山下少年物語』という、柔道の山下泰裕選手の伝記に基づいた映画があった。

 彼は子供のころ、暴れん坊で手の付けられない悪ガキだった。その体格から、孫を溺愛する祖父は相撲取りにと言っていたが、柔道に誘われると本人が興味を持って始める。そして練習に打ち込み立派な選手となって活躍をするという定石に沿ったドラマであった。だから主人公の本質に迫ってなどいない。公開当時も、話題になったのは祖父に扮した若山富三郎の演技だった。

 そして現実は、今の彼の言動からすると、美化された映画とは違い、人間性の中身は成長していないようだ。



 あの、JOC経理部長の死は自殺ではないと山下会長は言った。

 「飛び込んでいない、頭の側面が当たった」とのこと。自殺でないなら他殺か事故か。なにやら下山事件のようである。とにかく、なにがなんでもオリンピック開催に拘る山下会長。

 かつて「宮沢りえは女優をやめても宮沢りえだが、貴乃花は相撲をやめたら貴乃花ではなく只のデブ」と言われたように、大会で活躍しなければ只のデブやデクノボーというスポーツ選手は少なくない。スキルが無いので就職できない。知名度が無いので選挙にも出られない。タレントになれない。講演にも呼ばれない。スポーツ団体役員にもなれない。立場を利用して若い選手にブチューッもできない。

 それはそれで気の毒だが、そんな人たちに振り回されてはたまらない。


 
 
 

更新日:2021年6月24日

 先日、FM放送でロストロポーヴィチの演奏の録音が流れていた。

 これを聴いていて思い出したのだが、彼は政治の腐敗を批判したり、小説家のソルジェニーツィンを当局から匿うなどしたり、いわゆる反体制活動に手を染めたとして権力に睨まれて迫害された。

 だから、その当時の国歌を、歌詞の「ソビエト連邦」という意味の部分を「ロシア」に変えても、起立して歌う気になれないと言っていた。



 しかし、大多数の国民は、あの曲を聴くと誇らしい気持ちになると言った。

 それは、オリンピックの表彰式で米国歌とどちらが多く鳴り響くか競っていたことを思い出すからだ。

 こういうことがあるから、新型肺炎が心配でもオリンピックに拘る人たちがいるのだ。

 そこには、まず、大きな大会で活躍しないまま引退したらスキルなしデクノボーとして就職で苦労して無名だから選挙にも出られないという悲惨な末路という人たちがいる。

 また、イベントとして金儲けに利用したい人たちがいる。

 これらとは別に、大会を政治的に利用したい人たちがいる。そんな人たちにとってのスポーツとは、楽しんだり親睦や親善に役立てたりするためのものではなく、国民を統制するツールでしかないのだ。


 そんな発想になるのは、庶民ほどテレビばかり見て、なにも考えず雰囲気につられやすいからだ。

 おそらく、東京オリンピックが強行され、日本の選手が金メダルを取ったら、テレビでアナウンサーが絶叫するだろう。

 「コロナウイルスも緊急事態宣言も、日の丸と君が代が吹き飛ばしてくれましたーっ!!!」

 これに釣られて感動する庶民。どれくらい多いかは不明だが、大勢いるだろうと政府筋は期待しているはずだ。だから利益のオコボレの無い政治家でも、オリンピック開催に拘るということだろう。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年6月1日
  • 読了時間: 2分

更新日:2021年6月23日

 オリンピックは、すでに役割を終えたと外国メディアが論じていた。

今年は伝染病が問題になっているが、だから中止するべきという意見がある中で、そもそも無理して開催する意義は無いという指摘がされ、なぜならオリンピックそのものが役割を終えているということだ。


 前から問題になっていたのは、オリンピックが国威発揚になっていたり商業主義に毒されていたり、という実施の仕方の問題だった。そうではなく、もうオリンピック自体が無意味なのだ。

 なぜなら、競技の技術や人間の身体能力の向上によって新記録が更新されてきたけれど、そろそろ限界であるからだ。


 そして、例えば棒高跳びは棒の新しい素材が開発されることで記録が伸び、水泳でも新しい技術で作られた水着によって記録が伸びている、などの実態である。

 こうなると、そのうち「世界新記録!」と騒ぐことができなくなり、これではオリンピックが盛り上がらないどころか無意味になってしまう。そして、もうドーピングを解禁するしかないという議論が出てくるし、そのあとは出場選手が全員サイボーグなんてことも決して空想次元の話ではなくなる。このようなバカバカしいことに、今のまま続けば必ずなるだろう。


 つまり、スポーツは記録を競い合うことが無理になってきていて、だからオリンピックが限界に達しはじめている、ということだ。

 ただでさえ国威発揚とか商業主義とかの不純な意識に毒されていたうえ、さらに伝染病が深刻となっている今、オリンピックはもう歴史的な役割を終えたということになる。


 そして、しばらくしたら、オリンピックは古代ローマのコロシアムで行われていたグラディエーターの殺し合いみたいに、後世から見ると昔は愚かなことをして騒いでいたという歴史上の定義をされるだろう。



 
 
 
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