オリンピックとスポーツの限界
- 井上靜

- 2021年6月1日
- 読了時間: 2分
更新日:2021年6月23日
オリンピックは、すでに役割を終えたと外国メディアが論じていた。
今年は伝染病が問題になっているが、だから中止するべきという意見がある中で、そもそも無理して開催する意義は無いという指摘がされ、なぜならオリンピックそのものが役割を終えているということだ。
前から問題になっていたのは、オリンピックが国威発揚になっていたり商業主義に毒されていたり、という実施の仕方の問題だった。そうではなく、もうオリンピック自体が無意味なのだ。
なぜなら、競技の技術や人間の身体能力の向上によって新記録が更新されてきたけれど、そろそろ限界であるからだ。
そして、例えば棒高跳びは棒の新しい素材が開発されることで記録が伸び、水泳でも新しい技術で作られた水着によって記録が伸びている、などの実態である。
こうなると、そのうち「世界新記録!」と騒ぐことができなくなり、これではオリンピックが盛り上がらないどころか無意味になってしまう。そして、もうドーピングを解禁するしかないという議論が出てくるし、そのあとは出場選手が全員サイボーグなんてことも決して空想次元の話ではなくなる。このようなバカバカしいことに、今のまま続けば必ずなるだろう。
つまり、スポーツは記録を競い合うことが無理になってきていて、だからオリンピックが限界に達しはじめている、ということだ。
ただでさえ国威発揚とか商業主義とかの不純な意識に毒されていたうえ、さらに伝染病が深刻となっている今、オリンピックはもう歴史的な役割を終えたということになる。
そして、しばらくしたら、オリンピックは古代ローマのコロシアムで行われていたグラディエーターの殺し合いみたいに、後世から見ると昔は愚かなことをして騒いでいたという歴史上の定義をされるだろう。




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