菅野完氏の田舎についての辛辣で適確な指摘
- 井上靜

- 2月12日
- 読了時間: 3分
かつて自民党の中川雅治議員が、虐めを得意になって語った。
それは2010年頃から自身のサイト内で掲載していた義家弘介衆議院議員・橋本聖子参議院議員(ともに自民)との対談記事「教育鼎談」というコンテンツ内にて、「中学時代は男子校で、クラスの悪ガキを中心に皆いつもふざけていて、小さくて可愛い同級生を全部脱がして、着ていた服を教室の窓から投げるようなことをよくやっていました」と書いていたことだった。
これが、2015年8月になっていじめであるという批判を招いた。彼は毎日新聞の取材に対して「自分はやっていない。そういうことがあったのを見たということ。あっけらかんとしたもので、いじめとは思っていなかった」と弁解していた。

このさい、あの菅野完氏が指摘していた。
いじめは、この人達にとって普通のことだ。自民党は地方のボスの集まりだから。
まったくそのとおりだ。それは東京のことであっても、古い土着の人達は地方のボスであり、それが祭りなどで地元の人として出てくると本性を発揮する。そういう人達が、例えば秋葉原の文化に対して文句を言っているし、世田谷が与太者の街だから「よたがや」と皮肉られてるのも同じことで、かつて「世田谷、耕せ」という歌(爆風スランプ)があったけれど、これは農地が宅地化してよく成金が住むようになる前のことを皮肉ったものだった。
これは自分が六年くらい世田谷区に住んでいたので、地元の催し例えば無形文化財でもある伝統の「世田谷ボロ市」などで実際に接しているから解っている。
菅野完という人は田舎の醜さを見事に指摘する。
どうしてこのような指摘ができるのかは知らないが、彼は田舎について実に辛辣で適確なことを話す。そして最近では、高市首相が凄い田舎者であるから、それが良くて支持している人たちが多いことを指摘していた。
こう彼は指摘する。田舎とは支配と被支配の人間関係しかなく、田舎に行けば行くほどそうなる。だから、石破首相や岸田首相は人を支配しようとしなかったので田舎者は頼りないと感じたが、高市首相はDVに観られるような田舎者の加虐をする側として支配しようとするから、支配されることに慣れきった田舎者たちは自分の首に鎖を付ける高市首相を頼もしいと感じるのだ。
また、ファシストについても彼は指摘していた。
これは戦争になった時が特にそうだが、そのさいファシストから少数派の者たちは指刺されて笑われ、罵声を浴びせられるが、なんと言われるのか。直ぐ思い浮かぶ「非国民」とか「アカ」とかではないし、「愛国心が無い」でもない。ではなんと言われるのか。
「諦めろ」である。都合が悪いから迫害や弾圧をするのではなく、諦めさせるのが目的だ。これは田舎に行けば行くほど、そうなる。
これは自分も体験している。
親の事情で少年時代に東京から埼玉県に引っ越し、さらに山奥の方へ行ったことがあるけれど、そこでは地域でも学校でもまさに「諦めろ」の連続だった、地域の活動でも学校でも何か意欲を見せたり、良くないことを改善しようとすると、要するに「諦めろ」という趣旨のことを言われて、真面目にやっていることを嘲笑される。進学のための受験勉強でさえ、通っている学校では「諦めろ」であった。表向きは真面目に勉強しろと言うが、田舎の人が知らないことを勉強しようとしたり田舎の人が知らない職業に就きたいと言ったりすると頭から否定される。
この調子が普段からなので、戦争についても同じことになるのだ。
この田舎については他の人も、例えば宮台真司氏なども指摘していた。
しかし菅野完氏のほうが実感のこもったことを言う。それについて自分は、田舎を目の当たりにして筆舌に尽くしがたい体験を少年時代にしているから、身を以て解かるのだ。



コメント