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神道の御都合主義は権力と結託して弾圧するため

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 5月17日
  • 読了時間: 3分

 学問の自由が危機に瀕している。

 これはもちろん周知のとおり学術会議のことであるが、学問に対する攻撃の発端は1892年の久米武彦筆禍事件と言われる。日本の神道は宗教ではなく古俗の一つと論じた久米武彦教授の論文に怒った神道界と国粋主義者たちが、久米教授を猛攻撃した。

 これで久米教授は東京大学を辞任に追い込まれ、論文が掲載された雑誌は発禁処分にされた。


 それでいて、戦後は神道の側から宗教ではないことにするようになった。

 これは、国家神道が否定された後も神道を国教として扱われるようにするためだ。国教なら公的機関が儀式などを実施するけれど、そうすると憲法で定めた政教分離原則に違反するので、神道は宗教ではなく俗習であると言い逃れるのだ。

 つまり御都合主義だが、それで権力に擦り寄るというのは卑劣なやり方である。それなら神社という神社から宗教法人格を剥奪すべきだ。そして規定通りの税金を納めさせないといけない。


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 神道が、堂々と、あくまで古俗・俗習と表明したら相手にされないだろう。それで宗教のようにふるまう。

 例えば、建設のさい「地鎮祭」と称した儀式をしても、そんな御まじない効果があるわけない。事故は起きている。原始古来の儀式を原子力発電所の起工式で実施しているなんて滑稽だと昔から言われてきた。それで事故がなければ結構だが、そんなことはもともとあり得なかったし、効果が無いことは現実によって証明されている。

 それでも個人でやるのは自由だけど、公的機関が実施して料金を公費から払うので問題になる。すると途端に、これは宗教ではなく習慣だから違憲ではないと言い出す。だったら最初から宗教を偽装することないはずだ。

 これは要するに、金が欲しいだけのようだ。


 ところが、権力が市民の自由を奪うのに協力するという目的が、実は神道にあるのだ。

 だから、前にも取り上げたとおり、警察署には神棚が設置されていて、神道は国教だと擦り込み、靖国神社などで閣僚の参拝を戦争美化と政教分離違反だと批判する国民を警察は暴力で弾圧する。

 警察署として安全を祈願するためというが、これでは特定の宗教である。しかも政治的である。それで警官が安全になるなら結構だが、そんなことはない。もっとやるべきことがあるのに。警官たちが気の毒だ。

 これは柔道の指導と似ている。神棚は安全祈願のためだと言って、宗教が違うというと「生意気」と言って弾圧し、それでいて指導者がなってないので事故で深刻なことになってばかり。日本の柔道が衰退して外国の方が盛んになってしまったのも当然のことだ。


 どこの国でもあることだが、特に日本では宗教が権力と暴力に関与して罪深いことばかりしているのだ。

 学術会議の迫害に賛成した公明党の支持母体である創価学会は、神道では戦争に勝てないと指摘したため弾圧されて開祖が死んだのに、この迫害といい、その前から自民党を通じて神道との癒着といい、これだから、他の日蓮宗から、大上人の教えに背いたので必ず滅びると言わるのだ。  

 

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