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小山田圭吾の辞任と音楽家の人間性

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2021年7月20日
  • 読了時間: 2分

更新日:2021年7月25日


 よく、芸術の創作物と創作者は別であると言われる。


 例えば『アマデウス』という映画があった。あれに描かれるモーツァルトとサリエリは実際とは全然違うのだが、それは置くとして、モーツァルトが美しい音楽を作るけれど人間的には困ったところがあって、成人していながら子供っぽくて、純粋ということもできなくないが、それにしても小学生みたいに下品な言動をしていたりもする。このことは、かなり本当だったらしいと伝えられている。


 だから、小山田圭吾のように、障害児への暴行と虐待を笑い話にする人でも、作品は別ということができる。

 ただ、出来た作品をどう評価するかの問題ではなく、これはオリンピック開会式に使用する音楽を作らせることが、障害者への差別と偏見を排し社会参加と共存を目指す大会の目的に相応しいのかという問題である。他に人材はいくらでもいるのだから。


 前の東京オリンピックでは、記録映画の音楽が黛敏郎だった。

 この人も差別主義者であったが、あくまで彼は商売で三島由紀夫と仲良くするなどから右翼ぶっていた。だから彼が政治の話をしても全部受け売り二番煎じだった。日テレに頼まれて『スポーツ行進曲』を作ったけれど、実はスポーツ中継に関心が薄くてほとんど見なかったらしい。

 リヒャルトシュトラウスもスポーツに無関心だったけれどヒットラーに頼まれて仕方なくベルリンオリンピックの『オリンピック賛歌』を作曲していた。


 また古関裕而も東京オリンピック用の音楽を作っていた。

 戦時中は山田耕筰と同様に何の疑問も持たず戦意高揚の音楽を作っていたが、戦後は『ひめゆりの塔』の音楽で戦争犠牲者となった女性たちを追悼していた。オリンピックの行進曲では『君が代』を引用して体制に媚びていた。これを嫌らしいと感じた演出家が、その部分で花火を鳴らし打ち消していたという逸話がある。

 だいたい、古関裕而はプロ野球の阪神タイガース応援歌『六甲おろし』も有名だが、読売ジャイアンツなど他のチームの応援歌も作っていて、つまり商売優先であった。


 しょせん音楽家は、そんなものである。

 だが、昔とは社会の意識が違うし、そのうえ小山田圭吾の言動は、昔も今も、さすがに容認できないだろう。



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