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失敗したから山下達郎のファンをやめた人たち

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2023年10月18日
  • 読了時間: 3分

更新日:2023年10月19日

 山下達郎のコンサート前売り券を買っていたのに行かないという人がいた。

 これは山下達郎が嫌いになったからだ。またファンクラブをやめると言う人がいた。例の、ジャニーズ事務所との商売および利益は山下達郎にとって人権より大事であり、それが気に入らない人に自分の音楽は無用だと居直り言い放ったからだ。


 音楽と作り手は別だと言う人がいるけれど、とんでもない誤解である。

 そもそも音楽とは、決まった法則によって作られるものだから、AIに任せておけばよい最たるものであり、誰がどう作っても大差なく、すごい名曲と思っても似たようなのは必ずあり、好きか否かは誰が作ったか、どんな人が作ったか、の方が決定的だから、作った人を好きになれなくなったら音楽も好きになれなくなって当然である。

 これは他の芸術にも言えるが、特に音楽は殆ど100%である。


 モーツァルトでなくても誰かが同じ曲を作った。

 これは、ナポレオンがいなくても誰かが戦争した、アインシュタインがいなくても他の誰かが相対性理論を発見した、というのと同じである。そこでモーツァルトが人気なのは、同時代で同じ音楽は他にいくらでもあったけれど、英才教育を受けて神童と騒がれ大人になっても子供っぽくて無垢だった、などのキャラクターと音楽が合致しているから愛されているのだ。これが重い音楽だったら、それに似合ったキャラクターである必要性がある。

 つまり音楽家は例外なくアイドルである。それで、キャラクター的に幻滅だと音楽の価値も減滅である。


 槇原敬之が薬物で逮捕されたら坂本龍一は「音楽に罪はない」と言った。

 作り手の不祥事によって、その作品を否定するべきではない、という意味だ。しかし、これは不正確である。正確には「音楽に価値は無い」である。価値があるのは槇原敬之というキャラクターである。その音楽は誰でも可能である。どんな音楽でも、その人にしか出来ないというものは元から存在しない。個性はあっても、作者の個性に合うから面白いのであって、作品それ自体に作者と全く関係なく個性があるなんてことは有り得ない。

 そして槇原敬之の場合は、真面目だけど弱い部分を持ち合わせた人柄が、その作風と合っていたから、薬物に手を出したけど歌まで嫌いになるとは限らないということだ。


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 山下達郎は商業主義であると自覚して「時流に乗れ」と唄っていた。

 しかし権勢に媚びることでは一貫性があるけど、次第に流れが変わったことを読み切れなかった。だから、失敗した人として、ファンだったけどやめたという人たちがいるのだ。常に成功者としてふるまっていた山下達郎が失敗したら離れて当たり前。そういうことである。

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