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ペシャンコにされてもへこたれないぞ!

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年1月26日
  • 読了時間: 3分

 過日、高校生の時に愛読していたナット-ヘントフについて述べた。

 彼の小説『ペシャンコにされてもへこたれないぞ!』に、当時ベトナム戦争の徴兵忌避と、大学に入っての学生運動と、社会人になってどうするか、実力をつけて社会的な影響力を得たり、それ相当の地位に到達したりの後が良いか、それは日和見主義か、という問題がでてきた。


 この程度のことは普通の十代が考える水準である。

 また、その小説のなかで、社会に向かって何かしたいなら実力を付けてからにしたほうが良い、そうしたら影響力がある、と説くのは主人公の父親だった。お父さんは、息子にいちおうの理解はしているが、では大人になってから自分はどうかというと、お父さんは駄目だった。お父さんの言い訳とは、自覚した市民であることより他人から指示されるほうが考えなくて良いと多くの人たちが思っているから、社会に失望して自分の利益しか考えなくなって仕事人間と化したということだった。

 それで最期に主人公はともだちと一緒に、兵役を拒否する人は合法的にカナダに行けるよう窓口を作ろうと相談する。


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 その当時、自分の通っていた高校の担任教師(男性で担当は古文)が「人間は他人に尽くすために生きている」と偉そうに説いた。

 しかし、ほんとうに他人に尽くすには、自分も実力を付ける必要があるのではないか。受験勉強するのも、自分の出世のためだけではなく、社会的な影響力を付けることになるのではないか。

 そう問いかけても彼には理解できなかった。これは中学の担任教師も同じだった。この人は男性で理科の担当だったが「努力すれば自分の可能性が広がるんだ」と説教するけれど、努力イコール学校の勉強でしかなかった。こういうよくいる教師に対して、高校の担任教師は「自分の方が偉い」と言いたげに「人間は他人に尽くすために生きている」と嘯くのだった。そして、実力を付けるのは自分の出世のためばかりではなく人に尽くす実力を付ける意味もあるのではないかと言うと、そういうのは社会を変えようという「アカ」の思想につながると思っている田舎者だった。


 そんな政治的・社会的な課題でなくても、人に尽く実力という問題は人生につきまとうものだ。

 それが理解できない高校の担任教師を、ある同級生は「実質の伴わない言葉だけが虚しく踊っている人」と言い、他の同じ組の人は「人は良いけれど頭が悪い」と評していたが、「ここへ赴任してくる前に勤務していた高校が山奥だったから仕方ない」と言った生徒もいた。実際に、田舎の庶民ふうの同級生と親は、この担任教師を絶賛していた。

 では、米国でもヘントフが住んでいたニューヨークなど彼の小説の舞台は都会だが、これがスチーブン-キングの小説のように田舎だったらどうか。それでも「弱い者いじめ」には屈してはならないという少年が出てくるので、そこだけは日本と違うのだろう。


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